石 敬瑭(せき けいとう)
景福元年2月28日 (892年3月30日)
−天福7年6月13日 (942年7月28日)
五代後晋の初代皇帝
廟号は高祖
8世紀から10世紀頃まで、華北からオルドスから山西近辺の地域で繁栄した
テュルク系民族
の突厥を構成した一部族「沙陀」の出身で、山西省の太原で勢力を持っていた。
中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間を五代十国時代と呼ぶが、華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは沙陀人の皇帝が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国したものである。
漢人系とされている
孟知祥
の地方政権である後蜀や後周の
郭威、柴栄
といった君主などの王朝創始者の多くが、沙陀族の
劉知遠
に才能を見出されて沙陀系軍閥の将兵として台頭したものであり、沙陀系の各軍閥の軍事力を背景に建国した。
その後、全中華を統一した漢民族とされる
趙匡胤
の宋朝といっても、後周の国軍から台頭したもの。
沙陀族は突厥の崩壊後、吐蕃につき後に唐に帰服して雲州など現在の山西省北部に定着し、勢力を強めて軍閥化したものの次第に宇う朴院文化を離脱して漢化していった。
石氏はタシュケントを出自のソグド姓で、ソグド系突厥と呼ばれている。
唐朝後半期から東突厥のもとで突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。
父の石紹雍(臬捩鶏)は沙陀族長
李克用
が率いる軍閥に従って転戦した功により、洺州刺史に任命された。
幼少の頃に
幼少の頃に
李嗣源(後唐の明宗)
に認められ、その娘婿となった。
同光4年(926年)の
魏州兵変
に際し、李嗣源と共に汴州に入り、その後洛陽を攻撃した。
明宗が即位した後、保義、宣武、河東の節度使を歴任した。
その後、李従珂(末帝、廃帝)が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじるようになった。
理由をつけて、天平節度使に左遷されている。
その後、国内の反乱に乗じ
契丹の勢力
を背景にし皇帝を称した後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国した。
即位後に燕雲十六州を契丹に割譲し、さらに
毎年30万疋の絹
を献上する盟約を結んだ。
また、自分より10歳年下の太宗を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称し臣従した。
高祖の帝国運営に不満を持つ
安重栄や景延広
らと現状維持を続けてその間で国力の充実を図るべきとする
桑維翰
らが激しく対立した。
その後に河東節度使である劉知遠は西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族
吐谷渾
の投降を受け入れていた。
このため、しばしば契丹からの問責を受け、石 敬瑭は天福7年(942年)に憤死した。