劉 知遠(りゅう ちえん)
乾寧2年2月4日 (895年3月4日)
−乾祐元年1月27日 (948年3月10日)
五代後漢の初代皇帝
廟号は高祖
太原の人。
テュルク(トルコ)系突厥沙陀部出身で父の劉琠は後唐を建国した
テュルク(トルコ)系突厥沙陀部出身で父の劉琠は後唐を建国した
李克用
の将校として活躍した。
後唐の二代目皇帝明宗に仕え、その後はソドク系契丹族の後晋の高祖
石敬瑭
に仕えた。
石敬瑭は保義、宣武、河東の節度使を歴任した後
李従珂(末帝、廃帝)
が即位すると、石敬瑭の勢力を疎んじ天平節度使に左遷されたため、その後、国内の反乱に乗じて
契丹の勢力
を頼って皇帝を称した。
その後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国している。
劉知遠は後晋の建国に大功を挙げ、天福9年(944年)に幽州道行営招討使に任じられるなど軍の要職を歴任した。
建国において兵力の支援を受けた石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは強く反対したが、容れられなかった。
出帝のとき、後晋は契丹による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。
そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡したため、河東行軍司馬の張彦威に無主となった中原において、皇帝即位を薦められたが、この時は拒絶した。
天福12年(947年)2月、開封にて自ら即位して国号を「漢」とし、翌948年1月に乾祐と改元したうえ、名をロと改めた。