褒姒(ほうじ)
春秋時代に相当する西周朝第十二代の王「幽王」の后で美貌によって王を惑わせ、西周を破滅に導いた。
亡国の美女として有名。
即位した三年後、幽王は褒の地より後宮に入った褒姒を見て寵愛するようになった。
褒姒は笑うことがなく、幽王はなんとか彼女を笑わせようとした。
絹を裂く音を聞き、彼女が微かに微笑んだことで、国中の絹を集めては引き裂かせたともいう。
やがて褒姒は子の
伯服
を授かったものお、この年は関中で大地震が発生した。
記録官の伯陽甫は、亡国の凶兆であると書き残している。
夏の時代、宮中の庭に神龍が出現し、夏の帝は龍に漦(口の泡)を貰い、箱に納めた。
やがて夏王朝は亡び、この箱は殷王朝に伝わった。
さらに殷が亡び、箱は周の王家に伝わったものの、その数百年の間に、一度も開けられることがなかった。
周の脂、の世になり、この箱を開いたところ、中から泡が発して庭じゅうに溢れだした。
やがて泡は一尾の蜥蜴と為り、後宮に入り、七歳の童女に遭った。
やがて次代の宣王の時代、この童女が十五歳になったとき、男も無くひとりの女児を産んだ。
人は恐れ、この子を捨てた。
そのころ巷間に「山桑の弓に箕の箙、周の国が亡びよう」という童謡がはやった。
宣王が調査させると確かに山桑の弓と箕の箙を売っている夫婦がいたので、捕えて殺そうとした。
この夫婦は逃亡したが、途中で道ばたで泣いている捨子を見つけ、哀れに思って拾いあげた。
ともに褒国に逃げのびた後、褒の者に罪があり、育ったこの捨子の少女を宮中に差し出して許し求めた。
そこでこの褒国から来た少女を、褒姒と呼んだのである。
幽王の三年、王は後宮で褒姒を見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれた。
周の太史(記録官)伯陽は「禍成れり。周は滅びん」と言った。
褒姒は、幽王に笑い顔を見せたことはなかった。
幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。
ある日、幽王は緊急事態の知らせの烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。
一大事が起きたと思い、諸将はさっそく駆けつけたものの、来てみると何ごとも無いため、右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。
笑顔を見て喜んだ幽王は、そののちたびたび烽火を上げさせた。
諸将は烽火の合図を信用しなくなっていった。
また、王は佞臣の虢石父を登用して政治をまかせたため、私財の蓄積に勤しみ賄賂を要求するなどで人民は悪政に苦しみ、王を怨むようになった。
王は太后だった申氏と太子をも廃し、褒姒を太后にして伯服を太子にした。
これに怒った申氏の父の申侯は反乱を起こして蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。
王は烽火を上げさせたものの誰も信じず、応じて集まる兵はなかった。
反乱軍は容易く防衛線を突破し驪山で幽王を殺し、褒姒の身がらを捕獲し、褒姒は犬戎に連れ去られた。
反乱軍は都を攻略して財宝をことごとく奪い去った。
幽王の死後、申侯は廃太子となっていた宜臼を平王として立てた。
しかし、兵乱により王都の鎬京は破壊され再建は難しくなったため、平王は東の雒邑(洛邑)へと遷都し、西周は消滅して東周が始まったという。