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2018年07月20日

五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん) 長宗我部氏の家臣


 
五百蔵 左馬進(いおろい さまのしん)

    ?−慶長20年5月6日(1615年6月2日)

 別名 桑名藤次郎

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部氏の家臣だった。

 桑名親光の次男として生まれ、初代五百蔵左馬進が戸次川の戦いで討死した。
 その後、左馬進の娘を娶り義父と同じ名を名乗った。

 この「戸次川の戦い」合戦は豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。

 慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いに参加したが、西軍が敗れると長宗我部軍とに従い大坂に退却した。
 その後、長宗我部家が改易となったため、浅野家の家臣浅野良重を頼って紀伊の田辺に隠棲した。
  

 大坂方と徳川方との間が険悪になる中、慶長19年(1614年)9月に
   板倉勝重
は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は「此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいる」と答えて勝重を油断させ、僅か6人の従者と共に京都を脱出した。

 10月6日に大坂入城を果たし、これに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城した。
 大坂城に集結した牢人衆の中では長曾我部の勢力は最大の手勢1,000人を持った。

 大坂の陣の際に盛親を慕って入城した五百蔵左馬進だが慶長20年5月6日に藤堂高虎軍を撃破した「八尾の戦い」の渦中、盛親の馬前で討死したという。
              
   
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posted by まねきねこ at 00:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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