秋山 直国(あきやま なおくに)
不明− 慶長20年(1615年)没
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将
大和国秋山城(後の宇陀松山城)主
大和を拠点にしていた秋山氏は、沢氏・芳野氏と並んで
「宇陀三将」
と称され、興福寺領宇陀郡秋山荘を領していた。
南北朝時代には南朝方で参戦し隣接する北畠氏と密接な関係を築いた。
応仁の乱以降は北畠氏に属して地盤を築いた。
戦国時代の伊勢国の出来事をまとめた軍記物
勢州軍記
の「秋山謀叛事」によると、兄・教家は三好氏の婿として権勢を奮い伊勢国司
北畠具教
の命に従わなかったため、永禄年間の初め頃に居城の
神楽岡城(秋山城の別名)
を攻略され、父は北畠氏に人質に取られた。
教家自身も病死したため、家督は直国が継いだという。
直国の頃は大和の興福寺領を巡って十市遠勝と争った。
十市遠勝が三好三人衆と同盟を結ぶと、直国は松永久秀と結んで対抗した。
十市遠勝に永禄11年(1568年)に森屋城を攻められtあが、松永氏の後援を得て反撃し、十市氏の居城
龍王山城
を奪取した。
その後、元亀2年(1571年)に松永氏と敵対する筒井順慶に参軍し、大和国最大の野戦
辰市城の合戦
において松永軍を破る功績を挙げた。
天正10年(1582年)、筒井順慶が
山崎の戦い
に出陣した際は筒井城の留守を任されている。
天正12年(1584年)、豊臣秀吉の武将
蒲生氏郷
が松阪城主となり南伊勢を治めると、直国は沢氏らと共に蒲生氏の与力となって織田信雄を攻略し、3000石を領した。
天正18年(1590年)、伊達正宗への対抗措置として蒲生氏郷を陸奥国会津に転封となったが、これに従わずに大和に残った。
なお、これ以前に宇陀郡は豊臣氏の蔵入地となっていた。
そのため、秋山城には代官が派遣されており、この時点での秋山氏の所領は詳しい記録が残っていないため不明だ。
慶長5年(1600年)、徳川家康に属して旗本として
上杉景勝討伐
に参戦し功績を挙げた。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に属しており改易・没落した。
慶長20年(1615年)、浪人として大坂夏の陣では豊臣方として大坂城に入るが討死し、秋山氏は滅亡した。