青木 久矩(あおき ひさのり)
江戸時代初期の武将
豊臣秀吉の甥で越前金剛院城主であった「青木俊矩」の長男として生まれた。
慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いで西軍側で参戦し北国口を担当した。
戦うこともなかったが改易処分され父が失領した。
そのため、父と共に旧知の前田利長に預けられ、食客となった。
慶長19年(1614年)、大坂の陣では豊臣方として大坂城に入城した。
豊臣秀次に仕えていた木村重茲の子で甥にあたる
木村重成
の下で戦い感状を受ける武功を立てた。
翌年の大坂夏の陣で戦死した。
木村重成の父と兄の高成は「秀次事件」に連座し自害させられたが、重成と母の宮内卿局は助命され、重成は幼少から秀頼の小姓として仕え、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となった。
久矩の弟泰矩は加賀藩に仕えた。
また、末弟の昌矩が嫡男として青木家を継いだが、病弱のため隠棲した。
その後、結城秀康に召されて屋敷を与えられたことで
「平吹屋」
という屋号で酒の醸造業に転じ、以後、子孫は大正年間中頃までこれを家業として続けたという。