趙匡胤(ちょう きょういん)
北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)
廟号は太祖。
河北省固安県の人で父は後唐の禁軍将校
河北省固安県の人で父は後唐の禁軍将校
趙弘殷
で 母は杜氏。
次男として洛陽に生まれ、後漢の初め頃には不遇の身であり各地を転々としていた。
襄陽のある寺の老僧に勧められ、後に後周の太祖となる後漢の枢密使郭威の軍に身を投じた。
後周の世宗が即位すると近衛軍の将校となり、北漢の軍を迎え撃った
高平の戦い
では、左翼の軍勢が敗走して後周軍が危機に陥る中、趙匡胤は同僚を励まし北漢軍の前衛を打ち破る活躍をして、後周の勝利を掴んだ。
世宗の南唐征伐に従軍し、南唐の節度使であった皇甫暉・姚鳳らを自ら虜にする功績があった。
その後、揚州を攻めていた同僚の
韓令坤
が南唐の援軍を前に撤退を求めたため、世宗より援軍として派遣された。
趙匡胤は「もしも逃げる者があれば、その足を斬る」と督戦し、韓令坤らの必死の防戦の末、南唐軍万余りの首級を挙げることに成功した。
その後も趙匡胤は次々と南唐の城砦を攻略した。
趙匡胤の威名を恐れた南唐の
李m
は趙匡胤と世宗の間を裂こうと画策し、趙匡胤に
手紙と白金3千両
を贈ったが、趙匡胤はすべて世宗に献上したため、君臣の間に亀裂は生じなかった。
世宗が崩御し、わずか7歳の恭帝が即位すると、北漢の軍勢が来寇した。
その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった将兵の支持により、皇帝の象徴である黄衣を着せられて皇帝に冊立された。
趙匡胤は将兵たちに「自分の命令に従うをこと」を確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた。
こうした措置の上で、帝位に即くことに同意した。
開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、国号を宋と改めた。
その後、各地に割拠する諸国を次々に征服し、残るは呉越と北漢のみとなり天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。
死因については古来より、弟の太宗により殺害されたという説(千載不決の議)が根強くある。
崩御の翌年である太平興国二年(977年)正月に太祖の廟号が贈られ、英武聖文神徳皇帝と諡された。