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2018年08月11日

李 昪(り べん) 十国南唐の初代皇帝


李 昪(り べん)

 十国南唐の初代皇帝で廟号は烈祖と呼ばれる。
 ただ、禅譲で建国した南唐を正統の王朝として認めない立場からは先主と呼ばれている。


  

 幼少の頃に、淮南に勢力を張った呉の重臣の
   徐温
の養子となり、その後に徐温の実子を排除して、徐温の後継となった。
 そして、簒奪の準備がと整い表面的には呉朝4代目の睿帝から禅譲を受け皇帝となった。
 南唐を建国した後は戦争を起こさず、善政を尽くした。
 
 初名は徐知誥であるが、その出身や幼少期の様子は不明。
 史実として残るのは数えで8歳頃(895年)に徐温の養子となったということである。


 李昪は皇帝に即位した後は唐の憲宗の八男の建王李恪の玄孫であると称した。
 ただ、これが事実かどうかはわからない。


 中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書
   資治通鑑
には、皇帝となった後の李昪が役人に自分の祖先を誰にすべきかを諮問した記述がある。
 また、出身地もはっきりとしたことはわからないが、徐州の出身であるとしている記録が多い。


 北宋の薛居正らの撰である歴史書
   旧五代史
では海州の出身であるとしているが、これは養父の徐温の出身地と同じもの。 

 乾寧2年(895年)、後に呉を建国する
   楊行密
が濠州を攻めた際に孤児を発見し、その子を楊行密自らが引き取った。
 この孤児こそが後の李昪という。
 ただ、この子が楊家の中で、楊行密の長男の楊渥と折り合いが悪かったために、楊行密は配下の徐温の養子とさせたという。


 徐温の家に預けられてからは、徐知誥と名付けられ、優秀な青年として育った。
 
 楊行密は淮河以南長江以北の地に軍事勢力として確固たる勢力を確立した。


 天復2年(902年)には呉王と呼ばれるようになった。
 楊行密の死後は徐温が呉の政治の実権を掌握した。
 徐知誥は徐温の将兵を動かす幕閣の一員となり天祐6年(909年)に
   昇州防遏使兼楼船副使
に任命された。

 昇州の中心都市は金陵(現在の南京)であり、徐温はこの金陵を自らの勢力の拠点にすることを目論んだ。
 そのために自分の養子である徐知誥を昇州防遏使として昇州の防衛官に任命した。
 また、当時長江の下流や上流に敵を抱えた呉にとって重要な戦略を担う水軍の副指令としての役職楼船副使に任命した。


 天祐9年(912年)には戦功により昇州刺史に任命され、昇州をよく治めた。
 この時、徐知誥は人材を広く集め、宋斉丘などの有能な側近を幕閣に組み込んだ。


 徐温は自らの政権を確実にするために、呉の主要部を自らの親族で固めた。
  
 徐温自らは、昇州に駐屯して呉の政治を操り、実子の徐知訓を都の揚州においてこまごまとした政務をとらせた。
 また、徐温の昔の拠点である潤州には徐知誥を置いた。


 天祐14年(917年)に徐知誥は昇州から潤州に転任した。
 徐知誥が有能であるが養子であり、徐温は実子の長男の徐知訓に後を継がせようとした。
 ただ、徐知訓は放蕩息子であったため将兵の支持は低かった。


 徐知訓は徐知誥と仲が悪く、徐知誥を宴会中に暗殺しようとした事もあった。
 天祐15年(918年)6月、徐知訓は揚州で暗殺された。

 徐知誥は即座に揚州に入り、揚州での騒動を軍事的に収拾させた。

 この素早い対応に、徐温は徐知誥が仕組んで徐知訓を殺したのではないかと疑ったが、呉では徐知誥の声望が高かった。
 また、徐知訓が無茶苦茶な人間であることも周知の事実となっていた。

 その為、保身の意味もあり徐温も敢えて徐知誥に手を出す行動を起こすことも出来なかった。
 また、徐温には、この時徐知訓の他には成年に達した実子がいなかったことも背景にある。
 その為、徐知誥をいやおうなしに使わざるを得なかったと見られる。


 翌月、徐知誥は淮南行軍節度副使・内外馬歩督軍副使に任命された。

 これは徐知訓と同じ役職に登りつめたこととなり、徐知誥が徐温の代理人として都の揚州に駐在して政治を行っていくことを意味した。
 天祐16年(919年)7月には呉越との戦いで呉軍を率いて大勝した。
 徐知誥は揚州で政務を執り内政面では民力休養を推し進めて日増しに力をつけていった。
 徐温としては養子である徐知誥が強力になりすぎるのを恐れた。
 順義7年(927年)、徐温は徐知誥を失脚させようと画策し、次男である徐知詢に政務を執らせようとしたが、実行する前に没した。
 
 徐温の没後、徐知誥は揚州に、徐知詢は昇州にありその権力は両者で分けあうこととなった。
 両者の関係はあまり芳しくなかったが、徐知詢も遊び好きな性格であった。
 揚州にあって呉の政治を行ってきた徐知誥の方が人望は厚く、諸臣も徐知誥の方を頼った。


 乾貞3年(929年)、徐知誥は昇州の徐知詢を呉王の命と称して揚州に呼び出した。
 そして、徐知詢の兵権を剥奪したことで、徐知詢が徐知誥の権力に挑戦することが出来なくなった。


 大和3年(931年)、徐知誥は拠点を昇州に移した。
 揚州での細かな政務は長男の
   徐景通
に任せ、翌年には昇州の中心都市である金陵を大きく拡張した。
 徐知誥は呉の政治体制を強化し、最後の仕上げとして、睿帝から禅譲を受け、自ら皇帝となろうとした。


 天祚元年(935年)には、尚父・太師・大丞相・大元帥・斉王となり禅譲の準備は整えた。
 天祚3年(937年)3月、徐知誥は名前を徐誥に改めた。

 この「知」の字は徐温の息子達に共通してつけられている字であり、これを外した。
 8月、呉の睿帝から禅譲の詔が発せられ、10月に徐誥は江寧(金陵のこと、1月に改称されていた)において即位し、国号を斉とした。
 
 即位後の昇元3年(939年)には自ら唐の末裔と称し、名を李昪に改め、国号を唐とした。
  

 烈祖は即位後も戦を減らし、民を休養させることを政治の基本とする政策を取りつづけた。

 対立が続いていた近隣諸国とも修好を深め、例えば、長年対立してきた呉越の宮殿で火災が起きた時には、烈祖は火事見舞を贈った。


 内政の面では、土地を持たない民に土地を与えるように命じたうえ、開墾してできた土地の税を免除することで開墾を奨励した。治水も推進し、農業生産が増えるようにした。
 また、民の負担を減らす為に、宮殿を改修することもしなかった。


 昇元6年(942年)9月に昇元格という法律により、当時死刑が頻繁に行なわれ
   冤罪による処刑
も多かったが、この法によって、みだりに死刑を執行してはならないようにした。

 ただ、晩年は秦の始皇帝と同様に「不老不死」を目指し、道士のつくる怪しげな薬を常用した。
 これがために崩御したといわれている。


 烈祖個人は潔癖な人間として知られる。
 寵愛した后妃が自らの子を太子にするように烈祖に耳打ちしたところ烈祖は大いに怒り、この妃を尼にしたという。
 また、戦争を避け、民衆の暮らしを安定させたという点で名君であった。
 温和な政治によって、南唐の経済は発展し、後の絢爛なる文化を生み出す基となった。
   

   
posted by まねきねこ at 07:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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