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2018年01月06日

パスカル・パオリ(Pascal Paoli) コルシカ民族主義の指導者


パスカル・パオリ
    (Pascal Paoli)
    
     1725年4月6日 - 1807年2月5日

 コルシカ独立戦争、コルシカ民族主義の指導者

 本名はフィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli)

 コルシカのモロサリア出身で13世紀から続いていた海洋国家ジェノバ共和国のいよるコルシカ島の支配に抵抗して独立運動を進めた。

 1739年に抵抗運動への弾圧が強まり父と共にナポリ王国へと亡命した。
 1745年、ナポリ大学に学んだのちシチリア王国に渡り軍人となった。

 独立運動指導者のガッフォーリの暗殺を聞いてコルシカに帰還する決意を固めた。

 1755年、帰国すると、評議会の議決により、コルシカ王国の最高職であった「将軍」という地位に付いた。
 憲法等を発布して近代国家としてコルシカを整備しようとした。

   


 1768年にジェノヴァからコルシカの領有権を購入したフランス軍がコルシカ支配のため軍事侵攻し、2度目のフランスの侵攻
   ポンテ・ノーヴォの戦い
に敗れたパオリは、イギリスに亡命した。

 フランス革命後、フランス政府の許しを得て、コルシカに帰還した。

 パオリはコルシカの独立を心から望んでいたが、一方で、君主制主義者であった。

 8月10日事件で王制を打倒したのみならずルイ16世を処刑するに至った革命を嫌悪した。

 フランス軍の中尉となっていた
   ナポレオン・ボナパルト
は、初めこの英雄パオリを崇拝していた。

 彼は王制を打倒した革命(政権)を受け入れる立場で、次第に路線の違いが明らかになっていった。

 パオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらはイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成した。

 これに対し、リュシアン・ボナパルトがトゥーロンで告発演説を行った。
 1793年、国民公会はパオリ逮捕命令を発した。

 しかしこれに従う者はおらず、アジャクシオで騒乱があって、パオリ派の支配する議会はボナパルト一族を島から追放した。

 1794年、パオリはイギリス統治を受け入れ
   アングロ=コルス王国
を成立させるがまもなく副王の
   ギルバート・エリオット
と対立するようになり、1795年にはイギリスによって島から出るように命じられ、3度目の亡命を強いられた。

 イタリア軍司令官となっていたナポレオンは、1796年にコルシカを再占領して奪回した。
 パオリはそれを亡命先のロンドンで知り、二度と島の地を踏むことなく、1807年に亡くなった。

 遺体は1889年になって郷里のモロサリアへ戻され、同地の教会に埋葬された。 

    
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posted by まねきねこ at 21:25| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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