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2017年12月29日

イニャツィオ・ルポ(Ignazio Lupo) 組織犯罪「モレロ一家」の中核を担った幹部


イニャツィオ・ルポ
      (Ignazio Lupo)
         1877年3月19日 -
             1947年1月13日

 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィア
   モレロ一家
の組織犯罪の中核を担った幹部で、あだ名は「ウルフ」と呼ばれた。

 父親のロッコはシチリア島の地元マフィアの組員でrルポが10歳の時から父が経営する雑貨店の手伝いをやっていた。

 1898年10月、商売の競合相手を店で口論の末に射殺してしまった。
 そのため、警察に追われ1899年にシチリアからリバプール、カナダを経由して逃亡し米国に密入国した。

 NY市のマンハッタンのロウアー・イースト・サイドに流れ着いた。
 
 生活費を稼ぐため、慣れた商売の雑貨屋を開いたものの売れず、ブルックリンに拠点を変えて移り住んだ。 

 1901年には再びマンハッタンに戻り、リトルイタリーの一角でもあるプリンスストリートで輸入雑貨店を開いた。


 この店がシチリア島のコルレオーネ出身のマフィア
   ジュゼッペ・モレロ
の酒場の近くにあったため、モレロと懇意になり
   紙幣偽造
やイタリアからの移民を相手にした強請(ブラックハンド)を始めた。

 また、ピンハネを目論み、移民の商人に自分の品物を強制的に購入させたりした。
 こうした高い商品を買わないと店に放火したり爆弾を投げ込み、時には店を破産させる犯罪行為を繰り返し恐怖心を与えた。
 
 
 偽札や強請で稼いだ資金は合法ビジネスに回して、オリーブオイルやイタリア産レモンの
   輸入ビジネス
を拡大し、マンハッタンからブルックリンまで各所に支店を作っていった。

 なお、オリーブオイルやイタリア産レモンの輸入は
   年商50万ドル(当時)
とも言われニューヨークでも最大規模を誇った。

 こうして得た収益でリトルイタリー(モットストリート)に新たに本社を建てた。
 建物は豪華で、街中でひときわ目立ったという。

 商売道具の馬やワゴンは最上級のものを購入して、好んでリトルイタリーを馬車で派手に乗り回した。


 ルポの輸入ビジネスは
   合法の利益を増やす表の目的
   偽札の消化を隠ぺいする裏の目的
があり、ルポはモレロ一家の資金を管理する財政係として活動していた。

 また、潤沢な資金を使って組織内のパレルモ派閥を統括する存在とも言われた。
 
  
 1903年12月、モレロの義理の妹(テラノヴァ兄弟の実姉)と結婚しモレロとの姻戚関係を強化した。

 1906年3月7日には著名な銀行家の子供を誘拐・監禁したとして逮捕された。
 ただ、子供が法廷でルポと対面するとそれまでの証言を撤回したため、釈放された。
 
 
 1902年7月23日、雑貨商
   ジュゼッペ・カターニア
の袋詰めの遺体がベイリッジの岸辺で発見された。

 偽造犯罪の捜査でモレロ一家の張り込み監視をしていた
   シークレットサービス(USSS)
の監視記録にでは、カターニアの姿が確認できなくなる前にルポと一緒にいる姿が最後に目撃されていたという。

 ルポと居たのがカターニアを見た最後だったため、警察は、カターニアが紙幣偽造の仲間で、口封じで殺されたと推測した。
 ただ、明らかな証拠がなく起訴を見送った。

 1903年4月には一家のメンバーの親族
   ベネディット・マドニア
が木の樽入りの遺体で発見された。

 この事件は「バレルマーダー」事件と呼ばれ、モレロら12人と共にルポも逮捕された。
 ただ、この時も証拠が不十分で釈放されている。

 更に1902年に遡る紙幣偽造の件で再逮捕されたものの、これも証拠不十分で放免されている。

 1908年11月、不景気のあおりを受け会社は倒産、10万ドルの負債を残してルポは失踪した。


 ワインや雑貨など大量の物資を買い付けたうえ、その代金を支払うことなく失踪した。
 多くの取引相手は代金が支払われないためルポの家に集まったが、夜逃げしていた。

 同時期には不況の影響からかマンハッタンからブルックリンまで作為的に取り込み詐欺を働いたと見られる似たような雑貨会社の破産が相次いだ。
 こうした店舗の倒産による被害の総額は50万ドルに達したという。


 ルポは買い付けた大量の品物を倉庫に一旦保管したのち、秘密裡に輸出して故郷で売りさばいた。
 また、この商品を担保として銀行から巨額の金を借りたうえ、これを着服した。

 その他にも、抵当権が設定された建物を何も知らない商人にリースするなどで不正な不動産取引も行った。
 
 
 モレロ一家のアドバイザーで弁護士
   フィリップ・サイエッタ
はルポの銀行借入を仲介したり、破産詐欺の手口をアドバイスし犯罪行為に手を貸した。

 ルポの雑貨チェーンの傘下には、モレロ一家の
   アントニオ・チェカラ
   ジュゼッペ・パレルモ
   アントニオ・パッサナンティ
   フランク・ジト
などの組員がいた。

 1909年後半まで逃亡生活を続けたのちニューヨークに戻ると、銀行家や債権者を前にして
   「ブラックハンドから1万ドルを脅し取られ」
事業が立ち行かなくなったと自らが強請ギャングの被害者のように振る舞い主張した。

 物資の一部は既にイタリアに出荷され手に戻すことは出来なかったが残った物資は競売にかけられたものの被害の回収はできず
   被害者の証言
をもとに詐欺容疑でルポは逮捕された。

 ただ、1909年11月に証言していた被害者がルポの公判に出廷しなかったため、罪状は否認され釈放された。

 ルポが行方をくらましている1909年春、パレルモでマフィアの調査に来ていたニューヨーク市警の特別捜査官
   ジョゼッペ・ペトロジーノ
が暗殺された。

 この暗殺についてはモレロや現地のヴィト・カッショ・フェロと共に暗殺の謀議に加わっていた疑いがあるという。

 ペトロジーノは1900年代初めから
   モレロ一家の犯罪活動
を捜査しており、直近はイタリア系捜査官の特別チームを作るなど取締りを強化していた。
  
 ペトロジーノのイタリア出張行程は極秘だったが事前に新聞にリークされ、誰もが予定を知り所在を推測することができた。
 
 
 1908年半ば、モレロ一家は再び紙幣偽造の準備を始めた。

 ルポは北ニューヨークのハイランドの農場に作った紙幣偽造工場を時々視察し、進行状況をチェックした。

 1909年、不穏な動きをするモレロ一家にUSSSが反応し、メンバーを尾行してハイランドの拠点を突き止めた。

 1910年1月8日、バスビーチの自宅で
   ジュゼッペ・パレルモ
といるところを
   ウィリアム・J・フリン捜査官
が率いるUSSSチームが突入し逮捕された。

 1910年2月19日、先に逮捕されていたモレロと共に紙幣偽造の罪で30年刑で実刑判決を受け、アトランタ連邦刑務所に収監された。

 裁判中、判事の元に死の脅迫状が届き、裁判後にはフリン捜査官の暗殺を画策したが失敗に終わった。


 モレロ一家はその後もモレロのやルポの減刑・釈放を画策し、政治クラブまで作った。

 1920年6月、条件付きの恩赦で出所した。

 服役していた10年間に裏社会の勢力図は一変しており
   禁酒法
の下でギャングが激しい縄張り争いを展開していた。

 ルポのリトルイタリーやブルックリンの縄張りは、パレルモ系マフィアの
に侵食され支配されていた。


 1921年半ば、同じ頃出所したモレロと共にダキーラから「死の宣告」を受けた。
 そのため、同年11月頃シチリアに逃亡した。

 シチリアで味方の支持の取り付けに奔走し1922年5月、ニューヨークに戻ると、モレロはダキーラと戦った。
  
 ルポは再犯すると刑務所に逆戻りとなるため、モレロの異父弟の
   チロ・テラノヴァ
の家で隠遁していた。

 1923年12月に、ブルックリンでパレルモ派閥のマフィアとカラブリア系ギャングの縄張り争いの調停役を請われるなど一定の影響力を保持した。

 1927年テラノヴァの資金援助でブルックリンに家を建て、息子とフルーツ輸入やパン屋を始めた。

 ただ、ドル箱の酒の密輸には関与できず、強請ギャングを率いてイタリア系のパン職人組合に入り込み、会費を名目に日銭を稼いだ。

 また、フルーツ取引では葡萄の卸売をコントロールした。
 ブルックリンの販売利権を手中にしたほか、宝くじなど違法賭博も行った。

 1930年と1931年、ルポの葡萄利権に挑戦した商売敵を殺害した容疑などで2回逮捕されたmのの、証拠欠如で放免された。

 1935年、パン屋への強請行為で逮捕された。

 被害者のパン屋の多くは報復を恐れて証言しなかった。

 ただ、あるパン屋の女性は店に放火され爆弾で商品を台無しにされても強気で、ルポの脅迫暴力を法廷で証言した。

 この頃、長年のパトロンだったテラノヴァの裏社会のステイタスは低下していた。

 1936年7月、ルポは有罪となった。
 そのため、再犯によって恩赦資格が停止され、20年の残存刑期を服役すべくアトランタ刑務所に送り返された。

 
 1940年代、かつての仲間の多くは引退又は死亡し、同じ刑務所にいた比較的新しい部下達とは年齢が離れ過ぎて、1人で過ごす時間が増えた。

 孤独を紛らわすため宗教に走った。

 なお、規則を無視する問題児だった1910年代の監獄生活とは打って変わり、仕事の裁縫をきれいにこなして仕立て屋に褒められるなど模範囚になった。

 監獄医はルポが精神疾患を抱え、老年性痴呆の兆候があると診断した。

 1945年夏には、「ボケや子供じみた態度を取ることが増え、急速に容態が悪化している、家族が面倒をみられるうちに釈放した方がいい」と勧告した。

 恩赦破りの囚人の再出所は法手続で難航した。

 1946年12月21日、病気を理由に釈放された。持ち金が8ドルしかなく、刑務官から旅費を借りてニューヨークに戻った。

 妻は長年の貧窮から持家を売却してクイーンズの借家に移り、子供がしばしば訪れていた。
 釈放から3週間後、家族とクリスマスを過ごした後の翌年1月13日に死亡した。
  
  
     
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posted by まねきねこ at 17:09| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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