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2017年10月22日

サルヴァトーレ・ダキーラ(Salvatore "Toto" D'Aquila) ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたボス 

サルヴァトーレ・ダキーラ
       (Salvatore "Toto" D'Aquila)
   1878年11月9日 - 1928年10月10日
 シチリア島パレルモ出身のニューヨークのマフィアボスのひとり。
 ガンビーノ一家の源流とされる組織を率いたことで知られる。

 犯罪組織の各派閥にスパイを送り込み情報を把握したり、また
   傀儡のボス
を据えて間接支配するなど策謀に長けていた。
 1906年に家族とともに渡米し、マンハッタンのイースト・ハーレムに居住した。
 表向きは貿易商人としてシチリアなどから
   オリーブオイル
   チーズ
などを輸入していたという。

 1906年、1909年に詐欺などで逮捕歴があるが、検察で立件できずに放免されている。 
 移住当初からパレルモ出身者の犯罪組織を率いており、シチリア移民1世の世代を中心に結成されたコルレオーネ系の
   モレロ一家
の傘下ないしパートナーとして頭角を現していった。

 1910年2月にモレロ一家ボス
   ジュゼッペ・モレロ
ら他の多くのメンバーが内部密告者の証言により紙幣偽造で有罪とな逮捕され刑務所に収監された時、「ボスの中のボス」を宣言した。

 モレロ派残党を吸収してハーレムの覇権を争って組織を拡大させた。
 また、モレロと共に監獄送りになったパレルモ派閥のボス
   イニャツィオ・ルポ
の後継者としてその縄張りを継いだとされる。

 モレロ一家のパレルモ派閥はもともと1つだった。
 ダキーラがルポの後継者に選出された後、反対派との対立が明らかになり2つに分裂し、ダキーラ派とアル・ミネオ派になった。

 ダキーラ派は、同盟軍(ミネオ派-カステランマレーゼ派-モレロ派)と縄張りの確保で抗争しながら
   ジュゼッペ・フォンタナ
   ジュゼッペ・ファナロ
らモレロ一家の有力者を自陣に引き入れた。

 1913年11月、両者は敵対するモレロ一家とミネオの共謀により相次いで暗殺された。
 1914、1915年にダキーラは仕返しにモレロ一家の
   ロモンテ兄弟
を相次いで暗殺した。
 なお、この実行犯は配下のウンベルト・ヴァレンティとされている。
   
 1916年、モレロ一家はナポリを中心とした出身者で構成された犯罪組織
   カモッラとの戦争
で戦闘員が消耗して弱体化していった。
 ダキーラはブルックリンに拠点を移し、ウォーターフロントの利権に進出した。

 1917年、警察の摘発で組織が崩壊したブルックリンのカモッラの残党を吸収して勢力を広げた。
 また、ハーレムやロウアー・イースト・サイドにも配下のギャングを置き、利権を拡大・保持していった。

 ハーレムのコルレオーネ派閥のボスに
   サルヴァトーレ・ロイアカノ(Salvatore Loiacano)
を据えtあうえで間接支配した。
 一家のメンバーには、ウンベルト・ヴァレンティ、アクルーソ・ディミノ、サルヴァトーレ・マソット、サヴィエロ・ポラシア、ジョゼフ・トライナ、フランク・スカリーチェジョゼフ・ビオンドなどがいた。

 ニューヨーク以外の地域では、クリーヴランドのジョゼフ・ロナルド、バッファローのパルメリ一家などと緊密なネットワークを築いていた。
 モレロは1920年に出所し、裏切り者
   ロイアカノ
を粛清してボスの座を奪い返した。
  
 これを脅威に感じたダキーラはギャング会議を開き、モレロらの勢力メンバー12人に対しまとめて死の宣告を出した。
 これによりモレロ派と再び流血抗争に突入した。

 利権でもある密輸抗争も絡んで復讐合戦となり、両サイド合わせ十数人の死者を出した。

 ただ、1922年8月、モレロの指示を得た
に刺客ヴァレンティを返り討ちにされたためモレロ派封じ込みは頓挫した。
 1920年代半ば、故郷パレルモでもマフィア抗争が起き、戦闘資金をシチリアに送金して一方を助けた。

 1926年時点でブルックリンのバスビーチに住み、近くにカラブリア系ヌドランゲタと呼ばれる犯罪組織
らが住んでいた。
 なお、離反者や裏切り者が相次いで勢力が衰えると、ブロンクスに拠点を移し立て直しを図った。

 1928年10月10日早朝、係りつけの医者を訪問した時、イースト・ヴィレッジの路上で
   モレロ
   アル・ミネオ
らが共謀した暗殺者3人の狙撃犯に計9発撃たれ、即死した。
 この時は身辺を警護するボディガードはおらず、妻と4人の子供の目の前で殺された。

 近くのドラッグストアの主人が目撃して警察に一部始終を話したものの、犯罪組織のボスが暗殺されたことが判ると、翌日何も見ていないと前日の発言を撤回している。

 同年7月フランキー・イェールが殺された。
 この背景としては南ブルックリンの縄張りを乗っ取ろうとしたことが発端とされている。。

 ダキーラを葬ったマッセリアはアル・ミネオをダキーラ一家の新たなボスに据え、組織を乗っ取った。
 ダキーラ派残党はこれに抵抗し、一部がカステランマレーゼ派との提携に走りカステランマレーゼ戦争の引き金になった。
   
  
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posted by まねきねこ at 19:34| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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