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2016年09月10日

徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱


徴 姉妹 (ちょう しまい Hai Bà Trưng )
 
 1世紀に後漢の支配地域であった交州 (現在のベトナム北部など) で起こった反乱を首謀した
   徴側 (ちょうそく Trưng Trắc ? - 43年)
   徴弐 (ちょうに Trưng Nhị? - 43年)
 の姉妹を指す。

 徴側は峯州麋冷県の有力な
   貉将 (地域の軍事指導者)
の娘として生まれた。
 
 朱鳶県 (現 ハタイ省ソンタイ) の有力者であった
   詩索
の妻であった。
 ただ、徴弐の出生地は伝わっておらず姉と同様であると考えられる。

 
 ベトナム(交州) は前漢の武帝の時代に中国の侵攻に伴い支配下に入った。
 
 漢朝に支配されるまで貉将および貉侯(地域の領主)が割拠していた。
 地域の領主が有していた税の徴収権が中国側へと移管されていった。
 
 当時、南越を支配していた後漢に対しては、交州の有力者であった徴側が取り纏める形で徴税権を南越側に再び戻すように後漢政府に通告した。

 交趾郡太守・蘇定の悪政の影響から40年3月には南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同したという。
 
 徴側の妹であった徴弐も加わって、徴側は自ら女王として「徴王」を自称し麋冷県に宮廷を構えて徴税を強行する姿勢を示した。
   

 後漢の
   光武帝
はこれに対して徴姉妹による一連の行動を後漢に対する
   「重大な反乱行為」
であると判断し、馬援を「伏波将軍」に任じ反乱鎮圧を命じた。

 馬援は扶楽侯・劉隆を副将として、兵20,000(正規兵8,000、現地兵12,000) を率いて42年4月に南越へ到着した。

 ただ、悪天候と疫病の流行によって行軍が思うように進まず、馬援軍は苦戦を強いられた。
 
  南越兵の中でも厭戦ムードが広がったため徴姉妹は戦闘により早期の妥結を図るべく馬援軍と浪泊で決戦を挑んだ。
 
 軍事的な力の差があり大敗を喫し、徴姉妹が動員した将兵は数千が戦死し、20,000人以上が捕虜となった。
 
 徴姉妹は麋冷県・禁谿へ逃れたものの、馬援軍により厳しい追討が継続され徴姉妹は共に捕らえられた。
 尋問されたのちに処刑され、翌43年初めに徴姉妹の首は洛陽へと送られた。

 その後も馬援は残党を討ち取るため交州内を隈なく追撃して中部ベトナム・ゲアンにまで進軍し、数千人の貉将・貉侯を殺害すしたうえで、漢民族や親漢派の住民を交阯に屯田させ、反乱が起きた土地の根切・根絶を図った。

 しかし、その後も、趙嫗の反乱(248年) など、中国支配に対する反乱は断続的に続くこととなった。
 
 なお、一連の反乱は首謀者・徴姉妹の名を取って、「徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱」と呼ばれる。


    
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posted by まねきねこ at 10:11| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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