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2016年09月19日

乙支文徳(いつし ぶんとく) 高句麗の将軍


乙支文徳(いつし ぶんとく)
    6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ

 朝鮮半島北中部にあったツングース系民族の王朝である
   高句麗
の将軍で大臣だった人物。
 沈着にして精悍な資質と、知略に優れ、文章を能くしたとの記録がある。

 北朝鮮の平安道地方では
   乙支文徳
がソクダ山の者で、山に入り道を極め、悟りを開いたという伝説が残っている。
 こうした伝説から北朝鮮の首都平壌近くの出身と考えられるが詳細は不明。

 隋の煬帝(在位 604年8月21日 - 618年4月11日)による612年の
   第二次高句麗遠征
において、隋軍は113万3,800人の大軍で高句麗に侵攻した。
   
 第二次高句麗遠征は、113万3,800人の兵を以て200万と号する大軍と、それを支える輜重隊による前代未聞の規模で行われた。
 左右それぞれ12軍に別れて兵を進め、宇文述・于仲文らの9軍が鴨緑江の西辺に集い、高句麗と対峙していた。

 このときに乙支文徳は、高句麗の第26代の
   嬰陽王(在位 590年 - 618年)
の命を受けて、隋軍の内実を探るために偽りの投降を行なった。

 隋の兵士は遠路の出征に当たって支給された武器・衣料・食料があまりに重かったために食料を捨てた兵士が多く、出征後すぐに食糧難となって餓えていた。
 また、于仲文は嬰陽王または文徳を捕虜として拘束するように煬帝の密命を受けていたが、この密命を知らされていない慰撫使
   劉士龍
が制止したため、文徳は解放されてしまった。

 さらに、文徳を逃したのちに宇文述は食料不足のために退却を検討していた。

 煬帝の密命を果たせなかった于仲文が功なくして帰国することを嫌い、強引に文徳への追撃を主張した。
 このために余計な戦闘をしていたのである。

 隋軍の兵士たちが餓えていることを見て取った文徳は隋軍を抜け出し、高句麗軍に戻ってからは追ってくる隋軍を疲弊させる作戦を採った。

 宇文述らが追ってきたのに対し、一日に7回戦ってその度に負けた振りをして隋軍を引き寄せせる偽計を図り誘いこんだ。
 隋軍は薩水(清川江)を越えて平壌から30里ほどの山間に布陣した。


 これを見て文徳は敵将
   于仲文
に詩を書いて送り、さらに「軍を引き上げられるのであれば、嬰陽王を隋の皇帝の仮御所へお連れしましょう」と言って再び偽りの投降をした。

 七戦七敗の末に隋軍を翻弄して引き付けた文徳が、隋軍はもう十分に勝ったから戦を止めてはどうか」と伝え、自らに戦う意志の無いことを示して隋軍を油断させようとした。

 食料が乏しく兵士も疲労していたことと、平壌城の守りが堅くて陥落させられそうにないと悟った宇文述は停戦して隋に帰還しようとし、方陣を組んで軍を退却させた。

 そこへ文徳らが薩水を渡って退却しようとしたところを急襲、徹底的に攻撃して、右屯衛将軍の
   辛世雄
を戦死させたうえ隋軍に壊滅的な打撃を与えた。

 なお、遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人と惨敗した。
 この記念的な大勝利を、韓国・朝鮮では「薩水大捷」と呼んでいる。

 
 大勝利を収めた功績は高く評価されてはいるものの、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事がない。
 文徳の死の状況についても詳細は解らない。
  
 韓国の歴史教科書では乙支文徳が契丹の侵入を退けた
   姜邯賛
や文禄・慶長の役で日本水軍に大勝利(?)した
   李舜臣
とともに、外敵の侵入から祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。



    
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posted by まねきねこ at 15:03| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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