耽羅(たんら、ちんら、탐라)
耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される朝鮮半島の西南にある「済州島」に古代から1402年まで存在した王国。
百済、統一新羅、高麗に内属して独立を保ったものの15世紀初めに女真族の王朝である李氏朝鮮に完全併合された。
耽羅の起源については、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする
三姓神話
があり朝鮮半島本土の諸王国とは異なる。
神話によると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国。
その後、日本の使いが来て開国させたことなどを伝えている。
3世紀の中国の史書「三国志」魏志東夷伝に見える州胡が歴史的な記録の初見であり、韓族とは言語系統を異なるものであった。
この「三国史記」では耽羅が476年に百済の
文周王
に朝貢、498年に百済の
東城王
に服属したとの記録があり498年以後は百済に朝貢していた。
百済は660年に「唐・新羅連合軍の侵攻」によって突如滅したため耽羅は大混乱に陥った。
662年には新羅に服属したが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船が嵐を避けるために耽羅に寄港した。
日本書紀には唐軍の侵攻を恐れる耽羅がしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録がある。
また、継体天皇二年(508年)の記録として『南海中耽羅人初通百済国』と日本書紀に記録が残っており、百済と初めて通じたのが508年とされる。
記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。
記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。
この称号は新羅文武王が与えたとする文献もあるため、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いたと見られる。
耽羅星主が筆頭格で、これを王と見なす。
東シナ海の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となった。
東シナ海の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となった。
9世紀の商人
張保皐(生年不明 - 846年)
は新羅王の認可を受けて耽羅と莞島を拠点として活躍し、新羅、唐、日本の三国との貿易を盛んにした。
張は日本の能登半島(石川県)や十三湊(青森県五所川原市)から中国の広州、山東半島に及ぶ広大な海上貿易を独占した。
航海安寧のために観世音菩薩を祀るための法華寺を耽羅と莞島に、赤山法華院を山東半島に建立した。
この三寺院の建立によって耽羅は大乗仏教による共通の信仰が布教され、東アジア地域とつながった。
935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらくの間独立を維持で来た。
938年に耽羅国の星主
高自堅
は半島全域に勢力を広げた高麗に服属した。
高麗は1105年に「耽羅郡」を設置し、1108年に「済州郡」に改称した。
ここで「耽羅国」としての歴史から消えた。
1121年には済州と改称したものの支配階級であった星主、王子などの称号を高麗は認めていた。
1121年には済州と改称したものの支配階級であった星主、王子などの称号を高麗は認めていた。
高麗支配下での済州島では1168年の
良守の乱
や、1202年の
煩石・煩守の乱
1267年の
文幸奴の乱
など、苛烈な徴税や苦役を要求する高麗の京来官への済州島民の反乱が度々発生した。
モンゴル帝国は朝鮮半島を南下して高麗を征服。
モンゴル帝国は朝鮮半島を南下して高麗を征服。
服属させた高麗軍と共に、1270年に済州島に逃れてきた
三別抄(さんべつしょう)
を1273年に制圧した(三別抄の乱)、。
三別抄とは、高麗王朝の1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間にわたり、国王や文臣ではなく
崔氏政権(武臣政権)
において、武臣が朝廷の政治を掌握していた時代の私兵などを含む軍事組織の呼び名。
その後1275年に済州島を高麗から分離させ、名を耽羅に戻すことで反乱を起こす芽を摘んだ。
モンゴル帝国の直轄地にし耽羅にはモンゴル馬を放牧するための牧場を置いた。
この大元ウルスの時代には領地の民政統治官、行政長官としての業務を行う代官
ダルガチ
が置かれた。
また、この頃から済州島は流刑地となった。
元は1294年に耽羅を高麗に返した。
財政難の中で、この年、クビライハーンが亡くなり、内乱は収束してテムルが後継者になり、日本侵攻の失敗の後始末などを行った。
1368年に中国に漢人の朱元璋が元を草原に追い出し明朝(1368年 - 1644年)が成立すると、高麗は「親明反元」に転じた。
1368年に中国に漢人の朱元璋が元を草原に追い出し明朝(1368年 - 1644年)が成立すると、高麗は「親明反元」に転じた。
恭愍王23年(1374年)、明は高麗に馬2000頭を要求した。 高麗朝廷は耽羅に残った
牧胡(モクホ)
馬を出すように要求したところ牧胡らは
「私たちの王様が育てた馬を、敵に送るものか」
と、300頭以上は捧げられないと拒否したうえ高麗が派遣した官吏と兵士たちの首をはねた。
当時、高麗の役人はモンゴル人よりも厳しく耽羅の人々を搾取するようになっていたため耽羅土着民の相当数も牧胡の側に立った。
恭愍王(コンミンワン)の命を受けた将軍
崔瑩(チェ・ヨン)
は、同年、船314隻に精鋭兵2万5605人を引き連れ、牧胡討伐に乗り出した。
高麗の遼東討伐軍の規模が3万8830人だったことと比較すれば主力を投入したことになる。
崔瑩は耽羅の住民のうち、牧胡側につき命令に従わない者は、殲滅せよと厳命した。
討伐軍と牧胡騎兵3000人が戦闘したが敗北し、牧胡らは西帰浦の近くの小さな岩島、ボム島に追われ、牧胡の肖古禿不花と觀音普は崖で自殺した。
また、降伏した石迭里必思も斬首された。
牧胡の乱は鎮圧され、再びこの島を高麗の直轄地にした。
高麗に代わった女真族将軍の李成桂が高麗王朝を倒して成立した李氏朝鮮は、1404年に星主、王子など耽羅の伝統ある称号を廃止した。
1416年には済州牧使の下に県を設置し半島陸地と同様の地方支配体制となった。