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2024年05月17日

ハザール王国 コーカサス系の白人である遊牧民族

ハザール王国(Khazar הכוזרים)
 ハザール人は7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えたコーカサス系の白人である遊牧民族。
 アジアとヨーロッパを結ぶ回廊ともいうべきこの草原地帯には多種多様な民族が居住していた。

 東方の旅行家・地誌家やビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家などは、これら諸民族が絡む様々な事件・事変についての記録を後世に残している。
 なお、ハザール人がいつ頃からか、この地域に登場したのか、具体的な記録はない。
 448年、ビザンチン帝国からフン族の
   アッチラ大王
への使節団報告の中にフン族の配下で活動しるハザール人が
   「戦士民族」
として記述されているのが初見でもある。

 アッチラ大王の死後、フン帝国は内部の権力抗争から分裂して崩壊した。
 東ヨーロッパに権力の空白地が生じたため、上からの重しがなくなった戦闘員として活動していた諸民族は自立し、他の遊牧民も肥沃な土地を求めた周囲から押し寄せてきた。

 6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国の
   カワード1世
の治世にはハザール人はコーカサスの北方地域であるグルジア、アルバニア、アルメニアを占領 し領土を確保した。

 6世紀半ば、カワード1世の息子である
   ホスロー1世
の治世にも、ハザール人のペルシア国境地帯、特にアルメニアとアルバニアへの侵入は、止むことが なかったとの記録がある。

 ハザール人は略奪行為を繰り返し、資金が潤沢となったことから軍事力を強化して、コーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった。
 ハザール人は軍事力を高めて台頭してきた
   突厥(西トルコ帝国)
の配下に組み込まれるようになったが、帝国内でも最強の実戦部隊として同盟関係の下で活躍した。

 627年、ビザンチン帝国の
   ヘラクレイオス皇帝
は、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。

 ハザール人はこの対ペルシア遠征軍 に4万人の援軍を出した。
 ビザンチン帝国軍はペルシアの首都クテシフォンに迫ったという。
 
 7世紀中頃、権威を誇っていた突厥(西トルコ帝国)は権力争いが激化して分裂し滅び、カスピ海沿岸草原において
   ハザール王国(ハザール汗国)
が支配層と入れ変わり、ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。
 ハザール人は周辺民族を吸収しながら軍事的な勢力を急速に拡大した。
 支配領域は広がりアゾフ海沿岸のブルガール人を服属させた。
 また、黒海沿岸北部も手中に納め、クリミアの草原の大部分を占めるまで広がった。

 
 ハザール王国は北コーカサスの山麓や隣接草原において勢力を拡大して国力を充実させていった。
 同時期に、イスラム教の宗教国家である
   アラブ帝国(イスラム帝国)
が中東地域や北アフリカで台頭し、シリアとメソポタミアを蹂躙した。

 その後、7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス地域の攻撃を繰り返し、金品財法化ら穀物、奴隷などの略奪を欲しいままにするようになった。

 アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し都市を略奪したうえ破壊し、集落を焼き払った。 
 また、兵を養わせないように耕地・農園を蹂躙し荒らしたのち冬営地から家畜群を強奪し、住民を捕らえて、奴隷として連れ去るのを常としていた。
 ハザール王国とアラブ帝国の間で起きた大きな戦闘としては653年の「第1次アラブ戦争」と、721年の「第2次アラブ戦争」があった。
 「第1次アラブ戦争」は、アラブ軍がハザール王国に遠征したものの地の利を生かされ撃破された。

 また、「第2次アラブ戦争」はアルメニア総督
   ジェラーフ・イブン・アブダラーフ・アル・ハカミ
が率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。

 この「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して
   アルデビール要塞
を攻略し、アラブ軍を撃滅した。

 アルメニア・アゼルバイジャンの総督を務めていた
   マルワーン将軍
が率いるアラブ軍がアルデビール要塞支援のため遠征し、ハザール軍に対して2つの峠から奇襲をかけてボルガ川まで退却させている。
 最終的に、アラブの将軍マルワーンに講和を求め ることを余儀なくされた。

 「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料によれば双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。

 そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となった。
 これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。


 650年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入した。
 領土を拡大しながらピレネー山脈をこえてフランク王国の領土にはいった。
 732年トゥール・ポワ ティエでフランク王国と劇獲るしたが敗北し、西への進出は終了した。

 東は中央アジアまで進出したが、751年
   タラス河畔の戦い
で唐に敗れ、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了した。

 
 ハザール王国はササン朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返した。
 両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあり、ハザール王国はしばしばビザンチン帝国の敵と戦った。


 8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに遷都し、最後にボルガ河口のイティルに移った。

 ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係安定してきたため暗黙の停戦協定にまで至った。
 
 ビザンチン帝国の前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれた
   レオン4世
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。

 
 アラブ帝国の侵攻が止まったのち、新たな強敵が北方から台頭してきた。
 バイキングと呼ばれる北方部族ルス人(後のロシア人)である。

 834年、ハザール王はビ ザンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。

 この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。10世紀半ばまでの間、全体 として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を 基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての 貨物に10%の税金を課すこともできた。
 
 この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じていた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ 教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。
 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。

 もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイ ク国家であった。
 ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことに なっていった。

 ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。
 そし てついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされた。
 一部は国外に逃れた。
 この事件は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれている。
 この有力貴族は家族とともにボルガのロストフの地に亡命した。

 このロ ストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。こうして「ルーシ・ ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立した。
 862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合した。
 キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前。
 このキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となった。
 この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が、最初の ロシア国家の揺籃となった。

 ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国 とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになった。
 それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。

 ハ ザール人の王国は、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチ ン帝国の国庫にとってもキエフ・ロシア国の戦士商人にとってもストレスの原因となっていった。

 9世紀末あたりから、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。
 そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊が襲いかかり、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行なわれた。 
 この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。

 965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の「サルケル砦」が陥落した。
 このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を受けた。

 『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したと記述されtレイルる。
 しかし ウラジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れた。
 この地にキリスト教文化を広めるた。
 これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになった。

 同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚した。
 これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉した。
 それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」が成立した。
 当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つである。
 
 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。

 ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。
 ハザール王国のクリミア半島含む西部方面では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。

 10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けた。
 なお、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続けた。

 ハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在した。
 ハザール王国の崩壊期 に、ハザール人が多く流入して強化された。 

 キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握った。
 西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになった。
 ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。

 遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。

 ビザンチン帝国は、新たな同盟国であるキエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していた。しかし、キエフの衰退は速かった。独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空 白の時期が続いたためだ。
 力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族の
   クマン人(ポロヴェツ人)
で、ハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。
 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。
 この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。

 1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫の
   バトゥ・ハン
がヨーロッパ遠征に出発した。
 ボルガ河畔からロシアに侵入したバ トゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。更にその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め 込んだ。

 バトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えた。
 ただ、オゴタイ・ハンが没すると、バトゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。
 こうして、「キプチャク汗国」はロシアの大部分を支配したうえ、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、「タタールのくびき」が始まった。

 「キプチャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルと呼ばれ、ハザール王国の首都だった都市である。

 ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていない。
 この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。

 1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節団を送った。
 新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主 な目的であった。
 使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にボルガ川下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着し た。

 この使節団の長だった修道士
   カルピニ
は、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。
 その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼 が訪れた地域に住む人々のリストも残されている。
 そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザー ル人」の名がある。
  

posted by まねきねこ at 02:00| 愛知 ☁| Comment(0) | 用語集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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