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2016年09月06日

藤山 雷太(ふじやま らいた) 藤山コンツェルンの創立者


藤山 雷太(ふじやま らいた)

 1863年9月13日(旧暦文久3年8月1日)−
            1938年(昭和13年)12月19日


 佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家で貴族院勅選議員
 藤山コンツェルンを創立した。

 肥前国松浦郡大里村(現在の佐賀県伊万里市)で庄屋を務めていた佐賀藩士
   藤山覚右衛門
の三男として生まれ、伊吹家の養子となった。

 子に伊吹震、藤山愛一郎がいる。

 誕生日に庭の大樹に雷が落ちたことから雷太と名付けられた。

 佐賀藩校・弘道館で草場仙山に学び、後に草場を追って京都に出た。

 1878年(明治11年)に長崎師範学校に入学、同校を1880年(明治13年)に卒業した。
 同時に助教諭となり3年間講義を行った。

 1884年(明治17年)に上京して慶應義塾に学び、明治20年(1887年)4月に慶應義塾大学正科を卒業、地元に帰り、1888年(明治21年)長崎県会議員に当選した。

 議員、後に議長として長崎の外国人居留地の借地料据え置き問題について解決を導き長崎市から感謝金として5万円を贈られた。

この問題解決の際、福澤諭吉を介して、福澤の甥であり山陽鉄道社長
   中上川彦次郎
の知遇を得て、黒田清隆、大隈重信、鳩山和夫らと知り合った。

 その後、中上川によって三井銀行に採用され、抵当係長という重要ポストに付いた。
 その後、雷太は中上川の妻の妹と結婚し姻戚関係を結んだ。

 当時の部下として後の鐘紡社長の
   武藤山治
や後の富士紡社長の
   和田豊治
らがいた。

 桂太郎首相の邸宅を担保にした融資が焦げ付いていたため、躊躇することもなく邸宅を処分し債権を回収している。

 
 田中製造所が行き詰まり
   芝浦製作所(後 東芝)
として再生する際には支配人となって経営にあたった。
  

 王子製紙の専務取締役に就任し、当時の社長の
   渋沢栄一
や専務の大川平三郎にも憚ることなく直言した。

 この際、渋沢に社長辞任を要求し、結果として懐刀の大川を退けた後に渋沢も辞任した。

 1901年(明治34年)中上川が死去し、三井の実権が
   益田孝
に移ったことから1902年(明治35年)三井銀行を退職した。

 1903年(明治36年)には東京市街電鉄の取締役に就任したものの社長の
   雨宮敬次郎
と対立して辞任している。

 その後駿豆鉄道社長、日本火災保険副社長、歌舞伎座取締役、出版社泰東同文局社長を歴任した。
 なお、帝国劇場の創立にも関わった。

 1909年(明治42年)に渋沢栄一に推挙されて
   大日本製糖
の社長に就任した。

 当時の大日本精糖は輸入原料砂糖戻税法の期限延長を目論んだ贈賄が明るみに出た
   日糖疑獄
の渦中にあった。

 当時、取締役や議員らが逮捕され1909年7月11日には社長の酒勾常明が自殺するなど倒産寸前であった。

 大日本製糖を台湾での生産拡大などの経営方針で僅か2年ほどで再建させた。
 その後、朝鮮製糖、内外製糖、東洋精糖を合併し、規模を拡大させた。

 1933年(昭和8年)に戸籍上の長男
   伊吹震
に大日本製糖の社長を譲った。
 なお、翌年、実子長男の藤山愛一郎が社長となった。

     
  
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posted by まねきねこ at 19:45| 愛知 ☁| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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