鮮卑(せんぴ)
紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部やモンゴル地域に存在した遊牧騎馬民族のこと。
五胡十六国時代や南北朝時代には中国王朝の抵抗が弱まり、南侵して領土を確保し中国に北魏などの王朝を建てた。
漢代の初め、匈奴の
漢代の初め、匈奴の
冒頓単于(ぼくとつ ぜんう)
が東胡を滅ぼした際、その生き残りが
烏丸山
鮮卑山
に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。
鮮卑はしばらく匈奴の勢力下で軍事的な協力関係にあったが、匈奴が南北に分かれ反目し合うと、支配力が弱まり勢力を盛り返すようになった。
建武30年(54年)、鮮卑の大人(部族長)の
建武30年(54年)、鮮卑の大人(部族長)の
於仇賁(おきゅうほん)
は部族民を引き連れて後漢の都洛陽に上って朝貢した。
後漢の初代皇帝の光武帝から王に封じられた。
永平年間に、祭肜(さいゆう)が遼東太守となると、鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏丸の
永平年間に、祭肜(さいゆう)が遼東太守となると、鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏丸の
欽志賁(きんしほん)
らを暗殺した。
永元6年(94年)、鮮卑大都護の
永元6年(94年)、鮮卑大都護の
校尉蘇拔廆(そばつかい)
は、部族民を率いて護烏丸校尉の
任尚(じんしょう)
に従い、南匈奴の反抗者たちを討伐した。
朝廷はその功により蘇拔廆を率衆王に封じた。
殤帝の延平元年(106年)、鮮卑は東への移動を始め、長城の中に入って漁陽太守の張顕を殺した。
安帝の時代、鮮卑の大人の
殤帝の延平元年(106年)、鮮卑は東への移動を始め、長城の中に入って漁陽太守の張顕を殺した。
安帝の時代、鮮卑の大人の
燕茘陽(えんれいよう)
が入朝した。
朝廷は彼に鮮卑王の印綬を授けた。
これ以後、鮮卑は、あるときは反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴や烏丸と争った。
安帝の末年、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。
安帝の末年、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。
こののちに鮮卑の8000-9000の騎馬兵が代郡と馬城の砦を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。
朝廷は度遼将軍の
ケ遵(とうじゅん)
を鎮圧するために派遣して、長城を出て鮮卑を追撃させ、これを打ち破った。
鮮卑の大人烏倫(うりん)、其至鞬(きしけん)ら7000余人がケ遵に対し降伏を申し入れてきた。
朝廷は烏倫を王に封じ、其至鞬には侯の位を与えた。
ただ、ケ遵が去ったあと、其至鞬は再び叛き、護烏丸校尉を馬城に包囲した。
度遼将軍の
耿夔(こうき)
と幽州刺史とが救援に赴き、包囲を崩したものの其至鞬はこれ以後ますますその勢力を盛んにした。
其至鞬の軍は長城の内部に侵入して、五原郡の曼柏(まんはく)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけ
左薁鞬日逐王(さいくけんじつちくおう)
を殺した。
順帝の時代、再び長城の内部に侵入し、代郡の太守を殺した。
朝廷は長城付近に軍を駐屯させ、南単于も1万余人を率い、漢の軍を援助して鮮卑に攻撃を加え撃退した。
こののち、護烏丸校尉の
耿曄(こうよう)
は、烏丸大人で都尉の戎末廆(じゅうまつかい)を率いて長城を出ると鮮卑に攻撃をくわえたうえ、鮮卑の中の首領格の者たちを多く斬った。