古来より神が坐します神体山と仰ぐ
多度山(標高四〇三メートル)
の麓に鎮座する社
ご神体とされる多度山中には数多の磐座・御神石が遺されている。
『延喜式神名帳』では、霊験著しい神に、朝廷が臨時に祈願を捧げる名神祭を受ける「名神大社」に列し、以降累々幣帛が奉られた。
後一条天皇、鳥羽天皇、六条天皇の御即位に際し、御一代一度の大神宝使の御差遣を忝うし、全国有数の神社と仰がれた。
後白河法皇が編纂した当時の流行歌謡(今様)を編纂した
梁塵秘抄
にも、関(滋賀県 逢坂の関)以東の軍神の一社として唄われた。
弘長元年神階は正一位を極め、平家を始めとする武家の篤い信仰を受けた。
伊勢神宮・二見興玉神社・椿大神社に次いで4番目に参拝者数の多い神社
多度の豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神天津彦根命がご祭神
763年(天平宝字7年)、僧・万願によって神宮寺が創建された。
863年(貞観3年)、神階が正二位に累進した。
延喜式神名帳では名神大社に列し、伊勢国二宮として崇敬された。
神宮寺は伊勢国の准国分寺とされた。
平安後期には伊勢平氏により崇敬され、軍神としても信仰された。
中世には伊勢国司の北畠氏が保護していたが1571年(元亀2年)、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失した。
1605年(慶長10年)、桑名藩主の本多忠勝が再建した。
1873年(明治6年)、県社に列格し1915年(大正4年)に国幣大社に昇格した。
本宮である多度神社の他、次の別宮・摂社・末社を合わせて多度大社と呼ぶ。
ご祭神
*天津彦根命(あまつひこのかみ)
天照皇大御神が須佐之男命に授けられた物からお生まれになった五柱の男神の内の一柱とされる。
天照大神の御子神は男5人で、その3番目の子が天津彦根命である(素戔嗚尊の御子神は女3人。宗像三女神である)
*天目一箇命(あめのまひとつのかみ)
製鉄・鍛冶の神とされ
片目の神
とされる(鍛冶の仕事で片目を失明することが多いためと考えられる)。
(創建にまつわる伝説)
古代には、社殿背後の多度山を神体山され雄略天皇の御宇に社殿が造営され、天平宝字七年、満願禅師によって神宮寺が創建された。
その後『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』が牒上された。
伊勢国の准国分寺と目される程の壮麗な伽藍が造営された。
天津彦根命が天照大神の御子神であることや参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く
「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」
とも詠われた。
また、北伊勢大神宮・多度大神宮などとも呼ばれている。
場所 三重県桑名市多度町多度1681