円明園
1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝の康熙帝が、皇子の
胤メiいんしん)
に下賜した庭園が起源。
胤モェ5代皇帝雍正帝として即位した1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。
6代皇帝の乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた。
6代皇帝の乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた。
長春園の北側には、イエズス会士のブノワ(en:Michel Benoist)、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。
7代皇帝の嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられ、文源閣に四庫全書の正本が収められた。
1856年(咸豊6年)に勃発した
アロー戦争(第二次アヘン戦争)
に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪した。
植民地行政官として活躍する遠征軍司令官
ジェイムズ・ブルース(エルギン伯)
の命を受けたイギリス軍が
「捕虜が虐待されたことに対する復讐」
を名目にして徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。
こうした蛮行に対して円明園を評価していたフランスロマン主義の詩人で小説家であった
ヴィクトル・ユーゴー
ら一部の文化人はこの破壊行為を批判した。
この時破壊・略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されている。