大観通宝
中国の貨幣
北宋(960年 - 1127年)の最後の皇帝である第8代
徽宗(在位1100〜1125年)
が大観元年(1107年)に初鋳した銭貨。
徽宗は第6代皇帝神宗の六男(第11子)で芸術面では北宋最高の一人と言われる。
↓ 参考になったらクリックお願いします。 元符3年(1100年)、兄哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟である趙佶が皇帝に即位した。
契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝遼(916年から1125年)の侵攻を受け、五代の後晋は華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)を割譲した。
遼朝へ過酷な朝貢を強いられていた女真族の金は遼が貴族化し軍事力が低下し内部で派閥抗争が激化して国力が低下したところを見計らって金が侵攻して遼を亡ぼし占領した。
遼が亡びるなか宋朝は、失地回復のため宣和7年(1125年)に軍を派遣して燕雲十六州の一部奪還に成功した。
遼を亡ぼした金に占領された残りの州の奪還を計画し遼の敗残軍と密かに結んで金への攻撃を画策した。
ただ、この陰謀は金に露見し、阿骨打の後を継いだ太宗が宋に対して出兵する事態を招いた。
12月23日(西暦で1126年1月25 日)、金の強大な軍事力を恐れた徽宗は慌てて蔡攸や李綱・呉敏らと図って「己を罪する詔」を出すと退位したうえ、長男の趙桓(欽宗)に譲位して太上皇となった。
姑息にも、徽宗はさらに金軍から逃れようと蔡攸やわずかな宦官だけを引き連れて首都の開封を脱出した。
鎮江に落ち着いた徽宗は、金軍が一時撤退した後も帰国の気配も見せずないどころか自立の動きすらあったため、欽宗・呉敏らの画策で開封に連れ戻されて幽閉された。
また、蔡京父子・童貫らは配流され、後に蔡京ら病死者を除いて処刑してしまった。
靖康元年(1126年)、体制を立て直して侵攻してきた金軍は開封を陥落させ、徽宗は欽宗らと共に金に連行された。
紹興5年(1135年)、徽宗は五国城(現在の黒竜江省 依蘭県)にて54歳で死去した。
なお、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の妃、皇女、あらゆる宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北に連行されたうえ後宮に入れられた。
その後、天会5年(1128年)6月には金の官設の妓楼である洗衣院に身を移され、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられた。
南宋を建てた高宗の生母であった韋妃は老齢に達するまでこの境遇を耐え忍び、南宋で高宗に迎えられて長寿を全うした。
ただ、朱皇后や多くの女官などは その境遇に耐えかねて投身自殺した。
