宋通元宝
中国の貨幣
北宋(960年 - 1127年)の通貨で最初(960年)の鋳造された。
その後は年号を改元するごとにその年号をつけた新銭を鋳造していった。
宋は五代最後の突厥人の国家後周の近衛軍の将官
趙匡胤(ちょう きょういん)
が後周の幼主から禅譲を受けて建国した。
国号は宋であるが、領土の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け都開封を放棄し遷都するまでを北宋、南遷した後の南宋と区別している。
趙匡胤は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)となり廟号は太祖である。
↓ 参考になったらクリックお願いします。 戦乱が続いた五代十国時代を反省して軍人の力を削ぐことに腐心した。
唐代から戦乱の原因になっていた地方群を統括管理させた
節度使
の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。
ただ、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行ったため反乱芽を生むことは少なかった。
趙匡胤の政治は、無理押しをせず血生臭さを嫌った。
科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。
なお、官吏登用試験である科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。
平和を希求した趙匡胤の布いた文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化されたため軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となった。
内部派閥が出来ていったことが北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となった。
中国の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを除けば、前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはしていない。
西晋滅亡以降においては、王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにするのが殆どであった。
趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇した。
また、降伏した国の君主たちをも生かしたうえ貴族としての地位を保たせた。
