熈寧元宝
中国の貨幣
北宋(960年 - 1127年)の六代皇帝の
神宗
は、治平四年に熈寧と改元し、熈寧元年(1068年)に銭文を熈寧元寶とし、真書、篆書の二書体で改鋳した。
中国の北半を支配した女真族の征服王朝「金(1115年 - 1234年)」の侵攻を受け遷都するまでを北宋と呼ぶ。
金に宋の都開封を追われて南遷した後の南宋と区別する。
皇帝即位後は地方で政務実績のあった
王安石
を登用し、国家再建に乗りだした。
王安石は「政・官・財・軍事」の仕組みを再編して朝廷を効率化し、結果として賦税負担を軽減することでの国の発展を目標とする改革を進めた。
なお、神宗もその王安石の理念に同意し、全権を与えている。
この一方的な改革は大地主や大商人をはじめ、皇族などの既得権益を犯す内容を含んでいた。
このため保守派から大きな反対運動が引き起こされた。
また、官界でもその反対運動に参加する
旧法派
と称されるグループが誕生し、政務放棄により王安石へ対抗しあ。
なお、王安石も宰相の権限を活用し、これらの反対勢力を徹底的に押さえ込んだ。
反対派グループの司馬光、文彦博などに対して、次々と処罰を加えた。
図書館司書長という閑職に左遷された司馬光は、逆にこの機を利用して
資治通鑑
の編纂を行い、他の旧法派官僚も民間で文学や詩文・絵画・教育など文人として活動し、社会に新しい潮流を生み出した。
旧法派に対抗するため王安石派の呂恵卿や曾布などの実務官僚を次々と抜擢した。
熙寧7年(1074年)には運悪く天災が相次ぎ、また新法派内部で政策意見の不一致が発生したことから、神宗は王安石を解任した。
元豊時代の政策は、神宗独自のものであると捉えられる。
軍事面以外の政策は基本的に王安石の政策と類似したものであり、この時期の改革は新法を実情に合わせて修正した。
そして神宗治世後半には新法が全国に適用され、北宋の全盛期を迎えた。
国内の改革に成功した神宗は、西夏への侵攻を計画した。
この軍事行動は失敗に終わっている。 西夏との敗北を期に健康を害した神宗は、元豊8年(1085年)に38歳で崩御した。
故郷で新法改革の進展を見ていた王安石は、神宗崩御の知らせを受けるやそのまま病床に就いた。
なお、旧法派の宣仁太后が政権を掌握して新法を廃止したことを知り、そのまま病死した。