宝永通宝(ほうえいつうほう)
江戸時代に鋳造された銭貨の一種。
儒学を重んじた5代の徳川将軍綱吉は当初文治政治を推し進め、元禄文化が花開いた。
後半、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州の飢饉や元禄11年(1698年)の勅額大火、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火や天候不順に伴う諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震や富士山の噴火、宝永5年(1708年)の京都大火などの天変地異が立て続けに引き起こされて社会が不安定になり経済は崩壊した。
資金不足から、出目による品位の低下した元禄金銀を発行しtあとおによりインフレ傾向が強まり銭相場が高騰した。
こうした動きを鎮静化させるために宝永5年(1708年)に十文銭を発行した。
江戸時代当時は大銭(おおぜに)と呼ばれた。
銭文は「寳永通寳」でとなっており、背面には「永久世用」と鋳込まれ、その字間に「珍」の極印が打たれた。
銭文は「寳永通寳」でとなっており、背面には「永久世用」と鋳込まれ、その字間に「珍」の極印が打たれた。
ただ、鋳造期間は綱吉が崩御するまでの一年以内と短いものであった。
銭の大きく異なるものは末尾の「寳」字のウ冠の第二画が長いものと短いものが存在する。
それぞれ「深冠」、「浅冠」と呼ばれている。
銭の量目はそれぞれ、2.5匁(9.37グラム)、2.3匁(8.62グラム)と「浅冠」の方が軽い。
なお、これは鋳銭利益が上がらず、途中から量目を縮小したためという。
また「深冠」には「永」字の縦画が垂直な「直永」と呼ばれる手代わりが存在している。
寳永通寳には、宝永4年(1707年)に試鋳された。
試鋳銭には左右に「寳永」の二文字と裏面に「万世通用」が鋳込まれた二字寳永(にじほうえい)、および上下に「永十」と裏面に「永大」が鋳込まれた二字永十(にじえいじゅう)と呼ばれる貨幣が存在している。
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