大迦葉(だいかしょう Mahā-ka-śyapa)
釈迦十大弟子の一人で摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。
仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされた。
釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めた。
頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったとされる。
なお、迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前もあるが、摩訶迦葉とは別人である。
マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである
なお、迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前もあるが、摩訶迦葉とは別人である。
マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである
尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)
の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれ、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)と呼ばれた。
八歳でバラモンに入門し修行してすべてを得た。
さらに出家して求道したいと考えていたため、20歳の頃に家系が途絶えるのを恐れた両親は、大迦葉に結婚をすすめた。
大迦葉は清浄な生活を送りたいと一度断るも断りきれず、大迦葉は工巧に金の美しい女人像を造らせて、これと同じならばその人と結婚しようと条件を出した。
この条件について、困った両親は八人のバラモンに探すように頼んだ。
大迦葉らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいた所
大迦葉らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいた所
跋陀羅迦毘羅耶(バッダー、バドラー・カピラーニ)
の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから縁談がまとまった。
ただ、跋陀羅迦毘羅耶はまだ16歳で、彼女自身も出家したいと考えていたので、迦葉も彼女も使者に手紙を遣わして結婚を断るように要請したものの、お互いの使者が道で出会い、後々の事を考え破り捨てたという。
その後、迦葉は浮浪者に身をやつして跋陀羅迦毘羅耶の家に行き、互いに同じ出家の意志がある事を確認した。
それを承知の上で結婚したため、彼らは床も離れて寝たので12年間、子供もなく過ごした。
迦葉は両親が亡くなったある日、畑仕事を見ていて土中から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃し、世の無常を感じたという。
跋陀羅迦毘羅耶も同じく胡麻を乾燥していると多くの虫がおり、このまま油を絞ると殺生すると思い、共に出家を決意した。
多くの人が引き止める中、剃髪して粗衣に着替え鉢を持って二人は出家した。
なお、ある分かれ道でこのままでは私情に流されるとして、迦葉は右へ、彼女は左へと分かれたという。
迦葉は出家してもバラモンの修行をしていた。
王舎城と那茶陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会った。
ここで、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到ったとされる。
なお、釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられる。
なお、釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられる。