手力雄神社(てぢからおじんじゃ)
岐阜市にある神社で式内社の美濃国厚見郡
比奈守神社
とされている。
同じ岐阜市内の比奈守神社の説があるが現在の「比奈守神社」は明治元年「飛騨守神社」が改名したものとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため徳川家康の襲撃を受け、神体などごく一部を除き全焼した。
元和年間(1615年〜1624年)に本殿・拝殿などが再建された。
幣殿・拝殿は明治13年(1881年)に再度造営されている。
各務原市の那加手力雄神社の祭神の天手力雄神の本殿の軒には龍の彫刻があり、龍に関わる話が伝わっている。
これは戸隠神社の九頭竜社の影響と見られる。
なお、各務原市の手力雄神社は長森13ヶ村の郷社であり、那加手力雄神社は那加13ヶ村の郷社である。
ご祭神
*天手力雄神
場所 岐阜市蔵前6丁目8-22
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ご祭神
*天手力雄神
貞観2年(860年)、朝廷の宮中の祭神を分祀したもの。
腕力・筋力を象徴する神様
創建由来
貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる。
弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。
中世には長森が戦略上の要所で、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。
中世には長森が戦略上の要所で、度々戦火に見舞われた。木曽川渡河点は手力雄神社鎮座地以外に無く、尾張以東の東海道の軍勢が京に上るには、この場所で木曽川を渡るしかなかった。
信長父子は数次に亘って当所を攻めた。
ただ、湿地帯であることから大兵を用いることができず、断念している。
木曽川の下流である墨俣で陽動作戦を行い斎藤勢の主力を釘付けにしておき、上流の、鵜沼、前渡の川並衆を調略して舟で各務原に渡った。
信長公記では新加納に布陣したとの記録がある。
場所 岐阜市蔵前6丁目8-22
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