ブッチ・キャシディ
1866年4月13日 - 1908年11月7日
米国のアウトロー、強盗でサンダンス・キッドなどと共に強盗団
「ブッチ・キャシディのワイルドバンチ」
を結成、ネバダやモンタナなどで銀行強盗や列車強盗を繰り返した。
ユタ州ビーバーのモルモン教徒の家庭に生まれ、本名はロバート・ルロイ・パーカー(Robert LeRoy Parker)。
官憲や鉄道会社から雇われた探偵に追われて、サンダンス・キッドとともにボリビアに高飛びした。
隠れ家を包囲されて殺されたとされる。
1969年の西部劇映画『明日に向って撃て!』の題材になった。
1969年の西部劇映画『明日に向って撃て!』の題材になった。
父はイングランド移民のマキシミリアン・パーカー(Maximillian Parker)、母はスコットランド移民のアン・キャンベル・ギリーズ(Ann Campbell Gillies)という。
母アンは、北東イングランドニューキャッスルのタインサイド(Tyneside)に生まれ暮らし、1850年代後半にアメリカのユタ準州に移り、そこでマキシミリアンと結婚した。
パーカーの両親はイングランド、ランカシャー、プレストン(Preston)、ヴィクトリア・ロード(Victoria Road)で暮らしていた。
そのモルモン教の信仰の宗教的迫害を逃れるために移住した。
パーカーは13子の第1子であった。
パーカーは13子の第1子であった。
パーカーはユタ州ソルト・レーク・シティーの北346キロメートル(215マイル)のユタ州サークルヴィル(Circleville)近くの牧場で育った。
パーカーは10歳代前半で家を出て、酪農場で働きながら、ウマやウシの窃盗を主な職業とした
マイク・キャシディ(Mike Cassidy)
を尊敬し、その指導を受けたという。
パーカーは、ワイオミング州ロック・スプリングス(Rock Springs)で屠殺者(butcher。ブッチャー)として短期間働いた。
そのとき「Butch」(ブッチ)というあだ名がついた。
パーカーの最初の犯罪は軽犯罪で、1880年ころ、別の町の衣服店まで旅行したものの、あいにく店は閉まっていた。
パーカーは誰もいない施錠された店内に侵入しジーンズ1着とパイをいくらか取り、次に来た時に支払うことを約束する借用証書を残した。
衣服店はパーカーの行為に激怒し告発した。
パーカーは逮捕され、裁判に引き出されたものの陪審裁判で無罪放免になった。
パーカーは1884年まで牧場で働き続けた。
パーカーは1884年まで牧場で働き続けた。
パーカーは、表向きは仕事を探すために、裏では盗んだウマを買手に引き渡すため、コロラド州テルユライド(Telluride)に移住した。
パーカーはワイオミング州とモンタナ州でカウボーイ生活を送り、それから1887年にテルユライドに帰った。
パーカーは、競走馬所有者のマット・ウォーナー(Matt Warner)に初めて会った。
ウォーナーらはさまざまな催しでウマをレースに出場させ、勝利金を自分たちの間で分けた。
パーカー、ウォーナーおよびマカーティ兄弟(McCarty Brothers)のうち2人は、1889年6月24日のテルユライドのサン・ミゲル・ヴァレー銀行(San Miguel Valley Bank)から約21,000ドルを強盗する事件を起こした。
パーカー、ウォーナーおよびマカーティ兄弟(McCarty Brothers)のうち2人は、1889年6月24日のテルユライドのサン・ミゲル・ヴァレー銀行(San Miguel Valley Bank)から約21,000ドルを強盗する事件を起こした。
パーカーは1890年にワイオミング州デュボア(Dubois)近くの牧場を購入した。
この場所は、悪名高い「壁の穴」から州を横切ったところにあり地形が複雑で入り込んだ無法者らを追っ手から保護する役割を自然と持っていた。
そのためにパーカーの牧場経営はうまくいっているとは言えない状態であったが、「壁の穴」の無法者らとの密約で収入があったようだ。
1894年前半、パーカーは、西部開拓時代の無法者で牧場労働者の
アン・バセット(Ann Bassett。1878年 - 1956年)
と関係を持った。
バセットの父である牧場主
バセットの父である牧場主
ハーブ・バセット(Herb Bassett)
は、パーカーに新鮮なウマと牛肉を供給して取引をしていた。
パーカーはワイオミング州ランダー(Lander)でウマの窃盗と地元の牧場主らからの保護料の取立てで逮捕された。
ワイオミング州ララミー(Laramie)の州刑務所に収監された。
パーカーは、2年の刑のうち18ヶ月、服役し、1896年1月に、州知事ウィリアム・アルフォード・リチャーズ(William Alford Richards)に、刑の軽減の返礼に州内で再犯をしないと約束して出所した。
出所するやパーカーは、アン・バセットの姉ジョシー(Josie)と短い関係を持ち、それからアンとの関係に復した。
パーカーは、犯罪者との交流を強めた。
パーカーは、犯罪者との交流を強めた。
そのなかには特に親友エルジー・レイ(Elzy Lay)、ハーヴェイ・「キッド・カリ」・ローガン(Harvey "Kid Curry" Logan)、ベン・キルパトリック(Ben Kilpatrick)、ハリー・トレーシー(Harry Tracy)、ウィル・「ニューズ」・カーヴァー(Will "News" Carver)、ローラ・ブリオン(Laura Bullion)およびジョージ・カリ(George Curry)がいた。
パーカーは「ワイルド・バンチ」として知られるギャングを結成し、犯罪活動を活発化させた。
1896年8月13日、パーカー、レイ、ハーヴェイ・ローガンおよびボブ・ミークスは、アイダホ州モントピリア(Montpelier)で銀行強盗を働き、約7,000ドルを持って逃げた。
その直後、パーカーは、ペンシルヴェニアの土着人である
ハリー・ロングボー
別名サンダンス・キッドをワイルド・バンチに加入させた。
1897年前半、パーカーは、自分の断続的なガールフレンドであるアン・バセット、エルジー・レイおよびレイのガールフレンドであるモード・デーヴィスと、ロッバーズ・ルースト(Robbers Roost)で合流し共同で生活を始めた。
4人はそこに4月前半まで隠れていた。
1897年4月21日、ユタ州のキャッスル・ゲート(Castle Gate)という採鉱町で、パーカーとレイは、鉄道駅からプリーザント・ヴァレー・石炭会社(Pleasant Valley Coal Company)の総賃金を事務所に運搬する小集団の男性たちを待ち伏せして襲い、金貨で7,000ドル入りの袋を盗み、それを持ってロッバーズ・ルーストに逃げ帰った。
1899年6月2日、ギャングはワイオミング州ウィルコックス(Wilcox)近くでユニオン・パシフィックの急行列車を襲った。
この強盗事件は有名になり、大量の人狩りにつながった。
当時の多くの法執行者が、強盗をさがすための人狩りに参加したが、見つからなかった。
強盗の容疑で追跡した保安官らと撃ち合いとなり、キッド・カリとジョージ・カリの両者が保安官
ジョー・ヘーゼン(Joe Hazen)
を撃ち殺した。
雇われ殺し屋として有名で
ピンカートン探偵社
の契約社員である
トム・ホーン(Tom Horn)
は、爆発物専門家ビル・スペック(Bill Speck)から、パーカーらがヘーゼンを撃ったという情報を入手した。
それをピンカートンの探偵チャーリー・シリンゴ(Charlie Siringo)に伝えた。
ギャングは「壁の穴」のなかに逃げ込み潜伏した。
なお、シリンゴは、無法者のギャングを捕える仕事を割り当られていた。
シリンゴはエルフィー・ ランダスキー(Elfie Landusky)と友人になった。
ランダスキーはそのときまでに、キッド・カリの兄弟
ロニー・カリ(Lonny Curry)
が自分を妊娠させたと主張してカリというラスト・ネームで知られていた。
ランダスキーを通じて、シリンゴは、ギャングの居所を探し出すつもりであった。
1899年7月11日、レイその他はニュー・メキシコ州フォルサム(Folsom)近くの列車強盗に関わった。
1899年7月11日、レイその他はニュー・メキシコ州フォルサム(Folsom)近くの列車強盗に関わった。
襲撃では地元の保安官らとの撃ち合いになり、パーカーの親友レイが、保安官エドワード・ファー(Edward Farr)と民兵ヘンリー・ラヴ(Henry Love)を殺したため、ニュー・メキシコ州重罪犯刑務所で終身刑に服することになった。
犯罪者集団の「ワイルド・バンチ」は強盗につづいてさまざまな方向にむかって分裂して活動を個々に始めるようになった。
のちに「壁の穴」の隠れ家、「ロッバーズ・ルースト」、あるいはテキサス州サン・アントニオ(San Antonio)のおかみ
ファニー・ポーター(Fannie Porter)
が経営する売春宿のような定められた地点で再結成するのが常となった。
「壁の穴」の隠れ家は、ワイオミング州オールド・トレール・タウン(Old Trail Town)で組み立てられた。
それは1883年にアレクサンダー・ゲントによって建てられた。
レイを失った結果かもしれないが、ユタ州は1896年に連邦に加盟した。
レイを失った結果かもしれないが、ユタ州は1896年に連邦に加盟した。
パーカーは、恩赦を取り決めようとユタ州知事ヒーバー・ウェルズ(Heber Wells)に近づいた。
ウェルズは、パーカーにかわりにユニオン・パシフィック鉄道に刑事告発を取下げるように説得するように鉄道に近づくように助言した。
E・H・ハリマン(E. H. Harriman)会長のユニオン・パシフィック鉄道はつぎに、パーカーの盟友である、出所していた
マシュー・ウォーナー(Matthew Warner)
を通じてパーカーと会おうとした。
1900年8月29日、しかしながら、パーカー、ロングボーその他は、ワイオミング州ティプトン(Tipton)近くでユニオン・パシフィックの列車を襲って、パーカーの、その州内で再犯しないというワイオミング州知事との約束を破り、恩赦の見込みを事実上、無くした。
1900年2月28日、法執行者らがキッド・カリの兄弟ロニー・カリを、そのおばの家で逮捕しようとした。
1900年2月28日、法執行者らがキッド・カリの兄弟ロニー・カリを、そのおばの家で逮捕しようとした。
ロニーはその後に続く撃ち合いで殺され。
また、彼のいとこボブ・リー(Bob Lee)は窃盗で逮捕され、ワイオミング州内の刑務所に送られた。
民兵らはキッド・カリとビル・カーヴァーに追いつき、彼らを撃ち合いに巻き込み、その間に、保安官代理
アンドルー・ギボンズ(Andrew Gibbons)
と保安官代理フランク・レスーア(Frank LeSueur)が殺された。
カーヴァーとカリは逃げた。
4月17日、ジョージ・カリは、ユタ州グランド郡(Grand County)で、保安官
ジョン・タイラー(John Tyler)
および副保安官
サム・ジェンキンズ(Sam Jenkins)
との撃ち合いで殺された。
5月26日、キッド・カリは、ユタ州モーアブ(Moab)に騎り込み、タイラーとジェンキンスの両者を、ジョージ・カリの殺害と兄弟ロニーの死亡の報復として、厚かましい撃ち合いで殺した。
パーカー、ロングボーおよびビル・カーヴァーは、ネヴァダ州ウィネマッカ(Winnemucca)に旅行した。
5月26日、キッド・カリは、ユタ州モーアブ(Moab)に騎り込み、タイラーとジェンキンスの両者を、ジョージ・カリの殺害と兄弟ロニーの死亡の報復として、厚かましい撃ち合いで殺した。
パーカー、ロングボーおよびビル・カーヴァーは、ネヴァダ州ウィネマッカ(Winnemucca)に旅行した。
そこで1900年9月19日、彼らはネヴァダ州のファースト・ナショナル銀行ウィネマッカを襲って、32,640ドルを奪った。
12月、パーカーは、テキサス州フォート・ワース(Fort Worth)で、今や有名なフォート・ワースの5人の写真を撮らせた。
これにはパーカー、ロングボー、ハーヴェイ・ローガン(別名キッド・カリ)、ベン・キルパトリックおよびウィリアム・カーヴァーが写っている。
ピンカートン探偵社はその写真を1部、入手し、それを最新の指名手配のポスターに使用した。
キッド・カリはギャングに再加入し、パーカーおよびロングボーとともにモンタナ州ワグナー(Wagner)近くで
キッド・カリはギャングに再加入し、パーカーおよびロングボーとともにモンタナ州ワグナー(Wagner)近くで
グレート・ノーザン鉄道
を襲った。
こんどは、彼らは現金60,000ドルを運んだ。
ふたたびギャングは分裂し、ギャング構成員ウィル・カーヴァーは、保安官イライジャ・ブライアント(Elijah Briant)が率いる1人の追跡中の民兵団によって殺された。
1901年12月12日、ギャング構成員ベン・キルパトリックはテネシー州ノックスヴィル(Knoxville)で、ローラ・ビュリオンとともに捕えられた。
12月13日、法執行者らとの撃ち合い中、キッド・カリはノックスヴィルの警察官ウィリアム・ディンウドル(William Dinwiddle)およびロバート・セーラー(Robert Saylor)を殺し、逃げた。
カリは、ピンカートンの探偵らおよび他の法執行者らに追跡されているにもかかわらず、モンタナに戻り、そこで彼は、幾年も前の兄弟ジョニー殺害の責任がある牧場主ジェームズ・ウィンターズ(James Winters)を殺した。
パーカーとロングボーはそれからニュー・ヨーク市に逃げた。
パーカーとロングボーはそれからニュー・ヨーク市に逃げた。
1901年2月20日、ロングボーの女性友人エセル・「エッタ」・プレースとともに、彼らは、パーカーはプレースの虚構の兄弟ジェームズ・ライアン(James Ryan)を装って、イギリス汽船ハーミニアス(Herminius)に乗ってアルゼンチン、ブエノス・アイレスにむけて出発した。
そこで彼は、アンデス近くの、アルゼンチン中央西部のチュブ(Chubut)州チョリラ(Cholila)近くのリオ・ブランコの東岸に彼らが買った、15,000エーカー(61平方キロメートル)の牧場の4室の丸太小屋に、ロングボーおよびプレースとともに、落ち着いた。
1905年5月1日、警察が彼らに追いつきかけているので3人組はチョリラの農場を売った。
1905年5月1日、警察が彼らに追いつきかけているので3人組はチョリラの農場を売った。
ピンカートン探偵社は少し前に彼らの居所を知っていたが、雨季のために割り当てられた探偵
フランク・ディメーオ(Frank Dimaio)
はそこに行き、逮捕することができなかった。
知事フリオ・レサナ(Julio Lezana)はそのとき逮捕状を出していたが、それが執行される前に、パーカーと親しく、エッタ・プレースに惚れていたウェールズ系アルゼンチン人保安官エドワード・ハンフリーズが彼らに内報した。
3人組は、北のサン・カルロス・デ・バリローチェ(San Carlos de Bariloche)に逃げ、そこで彼らは汽船コンドル(Condor)に乗り、ナウェル・ウアピ湖(Nahuel Huapi Lake)を渡った。
3人組は、北のサン・カルロス・デ・バリローチェ(San Carlos de Bariloche)に逃げ、そこで彼らは汽船コンドル(Condor)に乗り、ナウェル・ウアピ湖(Nahuel Huapi Lake)を渡った。
ただ、年末までに彼らはアルゼンチンに戻っていた。
12月19日、パーカー、ロングボー、プレースおよび不明の男性(ハーヴェイ・ローガンかもしれない)は、ブエノス・アイレスの西方400マイル(640キロメートル)のビージャ・メルセデス(Villa Mercedes)の国立銀行(Banco de la Nacion )の強盗に参加し、12,000ペソを奪った。
武装した法執行者らに追跡されて、彼らはパンパとアンデスを横切り、チリに無事、帰着した。
1906年6月30日、エッタ・プレースは、逃亡生活はもうたくさんだと考え、ロングボーに護衛されてサン・フランシスコに帰った。
1906年6月30日、エッタ・プレースは、逃亡生活はもうたくさんだと考え、ロングボーに護衛されてサン・フランシスコに帰った。
パーカーは、中央ボリビアのアンデスのサンタ・ベラ・クルス(Santa Vera Cruz)地域の
コンコルディア(Concordia)錫鉱山
で「ジェームズ・『サンティアゴ』・マックスウェル」(James "Santiago" Maxwell)という別名で仕事を得て、そこで彼は帰ってきたロングボーといっしょになった。
皮肉にも、彼らの主たる仕事には会社の総賃金を護衛することもふくまれていた。
それでもやはりりっぱな牧場主として落ち着きたくて、パーカーは1907年後半、ボリビア西部のサバンナの辺境都市サンタ・クルス(Santa Cruz)に、ロングボーとともに、旅行した。
パーカーの死亡にかんする諸事実は、はっきりとは知られていない。 1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をロバで運搬中に、パーカーとロングボーであると信じられると面を付けたアメリカン人2人の山賊に襲われ、強盗された。山賊たちはそれからサン・ヴィンチェンテという小さい採鉱町に進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。左横腹に帯びていたその採鉱会社のロゴからアラモヨ鉱山からのものと確認し得る、彼らが所有していたロバのほかに、外国人の下宿人2人をもカサソラが疑うようになったとき、カサソラは家を出て、近くの電信吏に通知し、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊に通報したが、それはアバロア連隊であった。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、下宿屋は、兵3人、警察署長、地元市長とその職員の幾人か取り巻かれたが、彼らはアラモヨ強盗を拘束する意図であった。
兵3人が家屋に近づいたとき、山賊たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。
パーカーの死亡にかんする諸事実は、はっきりとは知られていない。 1908年11月3日、ボリビア南部のサン・ヴィンチェンテ(San Vicente)の近くで、「Aramayo Franke y Cia」銀鉱山の急使が、会社の賃金総額15,000ボリビア・ペソ相当をロバで運搬中に、パーカーとロングボーであると信じられると面を付けたアメリカン人2人の山賊に襲われ、強盗された。山賊たちはそれからサン・ヴィンチェンテという小さい採鉱町に進み、そこでボニファシオ・カサソラ(Bonifacio Casasola)という地元の鉱山労働者が所有する小さな下宿屋に下宿した。左横腹に帯びていたその採鉱会社のロゴからアラモヨ鉱山からのものと確認し得る、彼らが所有していたロバのほかに、外国人の下宿人2人をもカサソラが疑うようになったとき、カサソラは家を出て、近くの電信吏に通知し、電信吏は近くに駐屯する小さなボリビア陸軍騎兵部隊に通報したが、それはアバロア連隊であった。部隊は、ジャスタ・コンチャ(Justa Concha)大尉が率いる兵3人をサン・ヴィンチェンテに急派し、そこで彼らは地元当局に通報した。11月6日晩、下宿屋は、兵3人、警察署長、地元市長とその職員の幾人か取り巻かれたが、彼らはアラモヨ強盗を拘束する意図であった。
兵3人が家屋に近づいたとき、山賊たちが射撃を始め、兵のうち1人を殺し、もう1人を負傷させた。
それから拳銃での撃ち合いが続いた。午前2時ころ、発砲の休止中に警官隊と兵たちは家屋のなかから1人の男性が悲鳴をあげるのを聞いた。まもなく、一発の銃声が家屋のなかから聞え、そののち悲鳴がやんだ。
複数分ののち、もう一発の銃声が聞えた。
地元の人々が場所の周囲を包囲していたため膠着状態が翌朝まで続いたが、そのとき、彼らは中にはいると、両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。
地元の人々が場所の周囲を包囲していたため膠着状態が翌朝まで続いたが、そのとき、彼らは中にはいると、両腕、両脚に多数の銃創を負った遺体2体を見つけた。
男らのうち1人は前額に銃傷があった。
また、、残り1人はこめかみに弾痕があった。
地元警察報告の推理によれば、遺体の位置から判断して、1人の山賊が、一時的な共犯者を安楽死させるために撃って致命傷を負わせ、その直後、最後の弾丸で自殺した。
トゥピサ(Tupiza)警察による捜査において、山賊たちはアラモヨ総賃金強盗をはたらいた男たちであると身元が特定された。
トゥピサ(Tupiza)警察による捜査において、山賊たちはアラモヨ総賃金強盗をはたらいた男たちであると身元が特定された。
しかしボリビア当局は彼らの本当の名前を知らなかったし、彼らの身元を明確に特定することはできなかった。
これらの遺体は小さなサン・ヴィンチェンテの共同墓地に埋葬された。
1991年のアメリカの法医学人類学者クライド・スノー(Clyde Snow)による試みがなされて、パーカーとロングボーの生存する親戚と合致するDNAを持つ遺物は発見されなかったことから、1人または両者が生き延び、結局、合衆国に帰ったという主張につながっている。