中国の戦国時代(春秋時代から晋が紀元前403年に韓・魏・趙の3つの国に分かれ、秦による紀元前221年の中国統一まで)中晩期に円形の貨幣(圜銭または古圓法)が登場した。
商品交換の媒介物として用いられた
玉 壁
から変化したもので、主に「周」、「秦」、「趙」、「魏」、「燕」、「斉」などで作られ流通した。
なお、玉壁はドーナツ状の玉のこと(穿孔の縁から外郭に至る間の部分と穿孔との比が2:1のもの)
圜銭には、円孔(中心部が丸穴)と方孔(中心部が角穴)があり、中心部の孔の周囲や外周部に縁が設けられる圜銭もあった。
一般に圜銭の面は鋳造地や秤量単位等が表示されるように鋳出されており、背は平坦になっている。
圜銭は当時、政治、経済が他の国より発展して国力が充実していた「魏」で最初に作られた。
「魏」の圜銭は最初は「垣」、「共」(垣、共は地名)の字を鋳出したもので、後に鋳造地と秤量単位「釿」を鋳出したものが作られた。
なお、全て円孔の圜銭であった。
圜銭は紐に通して持ち運ぶことが出来ることで携帯が便利であり、大きさも適当だった。
価値の交換手段としての利便性から、他の各国にも普及、使用されていった。
経済の拡大で貨幣経済が波及していっており「趙」「周」で作られた圜銭の面文は、鋳造地のみ鋳出された円孔の圜銭となっている。
新興国であった「秦」で作られた圜銭は、鋳造地は鋳出せず、秤量単位「朱」「両」を鋳出し、円孔より逐次方孔に変化していった。
戦国末期になると軍事・経済大国となった「秦」の影響力が周辺国にも拡大し、刀幣流通地域であった「斉」「燕」においても圜銭を作る様に変化していった。