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2025年03月16日

アルフレート・フォン・ファルケンハウゼン

エルンスト・アレクサンダー・アルフレート・ヘルマン・フライヘア・フォン・ファルケンハウゼン
        (Ernst Alexander Alfred Herrmann Freiherr von Falkenhausen)
   1878年10月29日 - 1966年7月31日
 ドイツの軍人で最終階級は中将。
 第二次上海事変(上海戦)及び日中戦争の初期において中華民国の
   蒋介石
の軍事顧問を務め、第二次世界大戦中はベルギー及び北仏に駐留するドイツ軍司令官を務めた。
 男爵を意味する「フライヘア」の苗字が示すように、シレジア地方ナイセ(現在 ポーランド・ニサ)近郊にあった荘園グート・ブルーメンタールで元貴族の家に生まれた。
 少年時代は探検家を夢見たが、ブレスラウのギムナジウムを放校され陸軍幼年学校に入学し12歳で軍人への道を歩み始めた。
 オルデンブルクの第91歩兵連隊に配属されたものの規律正しい軍隊生活に飽きて当時行われていた
   米西戦争
でアメリカ軍に投じることを考えついた。
 しかし1900年に中国で
   義和団の乱
が発生すると、彼は志願して中国に派遣された。
 中国からの帰還後オルデンブルクの名家の娘と結婚した。
 次いでベルリンの参謀本部に異動となる。1904年の
   日露戦争
の勃発をきっかけにベルリン大学東洋学部に派遣され、東アジアにおける日本の勢力伸長と日本語を研究した。

 1910年に来日、日本軍研究のため名古屋の陸軍歩兵第33聯隊に滞在した。
 1912年5月から1914年の第一次世界大戦勃発まで東京のドイツ大使館で駐在陸軍武官を務めた。
 この時、崩壊寸前であった清朝と比較して
   日本の規律ある国民生活と軍隊
に好感を持った。
 第一次世界大戦中は西部戦線や東部戦線でさまざまな部隊の参謀を務めた。

 ヴェルダンの戦いでは兵站を担当した。
 次いでトルコへの異動となり、
   カフカス戦線
で戦うトルコ第2軍兵站部長、トルコ第7軍参謀長を務めた。
 また、当時オスマン帝国の支配下にあった
   パレスチナ戦線
ではプール・ル・メリット勲章を受章した。
 トルコではハンス・フォン・ゼークト(後 参謀総長)やトルコ第6軍参謀長であった
   フランツ・フォン・パーペン(後 首相)
などの知遇を得た。
 ファルケンハウゼンは、ヴェルサイユ条約で兵力10万人に制限されたワイマール共和国の陸軍に残留した。

 彼は、ポーランドとの東部国境画定交渉
   カップ一揆
の際の義勇軍「エアハルト海兵旅団」の武装解除などで活躍した。
 その後少将として砲兵学校教官となり、ミュンスター、ドレスデンの砲兵学校長となった。
 しかし1931年1月、中将の地位で退役に追い込まれた。
 これは砲兵学校の将校がナチス支持を公然と打ち出した事件に巻き込まれたからだとされている。

 ナチスからは入党の誘いがあったがこれを断り、ドイツ国家人民党に入党するとともに
   右翼系の退役軍人組織「鉄兜団」
に加入、指導者の一人となった。
 1934年に鉄兜団がナチス突撃隊に編入された際にはこれに反対して辞任した。
 その頃在中華民国ドイツ軍事顧問団で交代の動きがあり、ゼークトが中国へ渡る情勢となった。
 ドイツ外務省はこれを差し止めようとしていた。このためゼークトは1933年10月にファルケンハウゼンを中華民国の指導者蒋介石の個人顧問として推薦した。
 招聘を受けたファルケンハウゼンは「東アジアにおける日本のヘゲモニーは当分揺るがない」と考え、親中国的なゼークトとは意見を異にしていた。
 この後ファルケンハウゼンは自らの進路を各所に相談した。
はドイツ国内に残留することを勧め、突撃隊指導者などのポストを提示した。
 一方で国防相
   ヴェルナー・フォン・ブロンベルク
や軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウは中国行きを暗に勧めた。
 この結果、ファルケンハウゼンは中国行きを決断し、1934年4月にゼークトとともに中国に渡った。
 
 1935年にゼークトが帰国すると
   ドイツ軍事顧問団団長
となり、辛亥革命後の軍閥による内戦で混乱する
   中国軍の育成
   軍需生産の基礎作り
に従事した。
 1937年の第二次上海事変の作戦計画を作成し、日本軍を相手に第一次世界大戦の塹壕戦を教訓としたる防御陣地
   「ゼークト・ライン」
で対抗しようとしたが日本軍に突破された。
 ナチス政権下のドイツの極東政策は1936年には
   日独防共協定
を結ぶ一方で中国への援助も継続されるなど、日本と中国との間で大きく揺れていた。
 ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたものの、ドイツ外務省では中国派が優勢だった。
 しかし1938年にリッベントロップが外相に就任すると日本重視の姿勢が決定的となり、軍事顧問団は撤収することになった。
 帰国したファルケンハウゼンはナチスに否定的な
   フランツ・ハルダー
らに近づいた。
 第二次世界大戦勃発と同時に軍に復帰し、ドレスデン軍管区司令官に任命された。
 1940年からはドイツ軍占領下にあるベルギー及び北フランスの軍司令官を務めた。
 一時、北フランス、オランダ、ルクセンブルクも兼轄した。
 この職責において、以前はユダヤ人迫害に反対していたにもかかわらず、担当地域のユダヤ人の強制収容所への移送に従事した。
 また、捕虜やレジスタンスの処刑にも関わった。
 ただし、ユダヤ人移送を妨害あるいは遅延させようと試みた。

 フォン・ファルケンハウゼンはヒトラーに反対するグループ
   「黒いオーケストラ」
と親しく交流した。
 ヒトラー暗殺計画に参加、計画実行の数日前に西方軍総司令官
   ギュンター・フォン・クルーゲ
に電話して、連合軍と停戦して戦争を終わらせるよう主張した。
 この申し出に対し、クルーゲは「ヒトラーが死ぬまでは無理だ」と拒否した。
 こうして計画は失敗に終わり、ファルケンハウゼンはブーヘンヴァルト強制収容所、ついでダッハウ強制収容所に送られた。
 ただ、クーデター計画に加担していた証拠をゲシタポが得られなかったため、起訴はされなかった。

 強制収容所が連合軍により解放された後、ファルケンハウゼンは連合軍に救出されたものの、捕虜として1948年まで収容された。
 その後、戦時中にユダヤ人の移送及びベルギー人収容者を殺害した容疑で、ベルギーの裁判所に戦犯として起訴された。
 1951年に労働刑12年の判決を受けた。
 しかし3週間後にユダヤ人を救おうとしていたことや長年の強制収容所での拘留期間を考慮され、ドイツに移送された。
 
 フォン・ファルケンハウゼンは逮捕中に知り合ったベルギーの反ナチス活動家の未亡人と再婚した。
 東ドイツと西ドイツの境界近くで旧友パーペンの家の近くで暮らしていた。
 その後、東ドイツの工作員に誘拐されることを恐れてラインラント=プファルツ州ナッサウに移住、そこで死去した。

 戦後も蒋介石との親交は続き、ファルケンハウゼンが戦犯として拘留されている際には、蒋がファルケンハウゼンの家族を経済的に援助していた。
 また、ファルケンハウゼンも獄中から蒋に
   抗日戦争勝利三周年
を機に蒋を称賛する書簡を送っている。
 1958年のファルケンハウゼンの80歳の誕生日にはすでに大陸から台湾に逃れていた蒋から3千ドルの小切手が送られたという。

   
posted by まねきねこ at 06:15| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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