アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン
・ビン・ファイサル・アール・サウード
Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud
1880年 - 1953年11月9日
ワッハーブ派イマーム(在位:1902年 - 1953年)、ヒジャーズ国王(在位:1926年1月8日 - 1931年)、ナジュド国王(在位:1927年 - 1931年)、ナジュド及びヒジャーズ国王(1931年 - 1932年)、初代サウジアラビア国王(在位:1932年 - 1953年)
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード、またはイブン・サウードの名で知られる。
イスラム原理主義であるワッハーブ派イマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。
アラビア中部のリヤド周辺にまで縮小し、且つラシード家の
ムハンマド・イブン・アブドゥッラー
に実権を奪われていたサウード家の出身。
ワッハーブ派イマームである父が第二次サウード王国の実権を握っていたラシード家の勢力をリヤドから排除することに失敗した。
命からがら1891年に一族とともに放浪した果てにクウェートに亡命した。
これにより、分裂して衰退していた第2次サウード王国は完全に滅亡した。
1901年、クウェートの大首長
ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ
とジャバル・シャンマル王国のラシード家との戦いに参加した。
ファイサルは別働隊としてリヤド攻略を任されたが、本隊が大敗したことによりリヤドを陥落することが出来なかった。
1902年、ファイサルが22歳のときに40人の兵力でマスマク城に居を構えていた
アジュラーン総督
を討ち取りリヤドを奪還した。
1914年から第一次世界大戦が始まると、オスマントルコとドイツの中央軍に対抗する英国・ロシア・フランスの連合国側に協力して力を蓄えた。
1919年にサウード家の勢力拡大が自身の独立に影響を与えると考え、ラシード家を影で支援していたクウェートのサリーム首長に業を煮やしたファイサルはクウェートに侵攻した。
この軍事行動に対し、大英帝国は空軍を派遣してけん制したために、ファイサルはクウェート侵攻を諦めている。
イギリスはサウード家の勢力拡大に全面協力していたわけでなく、またサウード家を支援したのは専ら大英帝国内でも
ジョン・フィルビー
の所属したインド総督府であった。
メッカのアミールでハーシム家に属する
フサイン・イブン・アリー
がアラブ反乱を起こし、オスマン帝国から独立してヒジャーズ王国を建国するなど、ハーシム家はイラク王家などアラビア半島で勢力を保持していたためアラビアのロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していた。
そのため、ファイサルはイギリスとの戦力差を意識して反抗することはなかった。
1920年には力を蓄え大英帝国を背景にして中部アラビアを支配下に置いた。
1921年にはラシード家を滅ぼし、1925年にはヒジャーズ王国をハーシム家より奪った。
1924年にホームズ少佐にアル=ハサ地方の石油利権を与えた。
1927年には大英帝国とジッダ条約を締結しナジュド王国の独立を認めさせている。
1928年の赤線協定が施行され、1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となった。 その翌年(1932年)には、サウジアラビア王国と国名を変えている。
1933年にホームズ少佐からガルフ石油に移行した石油利権がカルフォニア=アラビアン・スタンダード石油に移った。
これ以降、アメリカ合衆国との関係が深まり、1938年にはアラムコにより、サウジアラビア初の油田が発見され、メッカ・メディナの2大聖地巡礼に代わる財源を確保した。
1948年にはパレスチナ戦争が起こり、ファイサルもサウジ軍を派遣した。
しかし、国境を接しておらず、また米英との戦力差を熟知している故に米英のゴーサインが出ない紛争には介入しない方針だったために、パレスチナ問題にはあまり積極的ではなかった。
パレスチナ戦争後はアメリカ合衆国との協調関係がさらに進み、アメリカ合衆国から新鋭機械を導入するなどして自国内の油田開発に当たった。
宗教においても自身がイマームを勤めるワッハーブ派のイスラム教(最も厳正で復古主義的)を国教として定めるなどして、サウジアラビア王国の基礎を築き上げた。
宗教においても自身がイマームを勤めるワッハーブ派のイスラム教(最も厳正で復古主義的)を国教として定めるなどして、サウジアラビア王国の基礎を築き上げた。