鄭 成功(てい せいこう)
寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日)
- 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日)
中国明代の軍人で政治家 俗称 国姓爺
日本名は福松
清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。
台湾・中国では民族的英雄として描かれ、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ
「三人の国神」
の一人として尊敬されている。
鉄の甲冑を着込んでいたため「鉄人」とも呼ばれる。
また、元和偃武(げんなえんぶ)と言われ、慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が日本国内で終了した事から、大名の取り潰しにより多くの武士などの日本人が活路を求めて海外に進出し傭兵となった。
鄭芝龍
と日本人の母親
田川松
の間に生まれた。
父、芝龍は平戸老一官と称し、時の松浦氏第28代目の
松浦隆信
の保護を受けた商人として川内浦に住み、浦人田川松(マツ)を娶り二子(福松と七左衛門)を生んだ。
たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて男児を出産した。
この子が後の鄭成功である。
幼名は福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごしたが、日本が鎖国体制をとる1635年の4年前、7歳のときに父の故郷福建に戻った。
鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っていた。
民国政府軍や商売敵との抗争のため、私兵を擁して武力を持つ倭寇とも呼ばれた武装商人でもあった。
15歳のとき、院考に合格し、南安県の国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得生員になった。
明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事した。
天啓7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに大規模な農民の反乱が起きた。
この反乱の指導者の一人でもある李自成が1644年に北京を陥落させて崇禎帝を自縊させると、明が滅んで李自成が建国を宣言した王朝「順」を建国した。
都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。
鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立した。
この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。
農民一揆軍でしかない寄せ集めの順が精悍な満州族による清軍の攻撃によりあっけなく滅ぼされた。
蒙古の元朝以来である、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となった。
隆武帝の政権は異民族である満州族の清朝の支配に対する抵抗運動により政権を維持する名目が出来た。
隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝が殺された。
時勢を読んだ鄭芝龍は大義がなくなったため、抵抗運動に将来無しと見て清に降った。
父が投降するのを成功は泣いて止めたものの芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げている。
広西にいた万暦帝の孫である
朱由榔
は永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていた。
成功はこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続け、厦門島を奇襲し、清に降った従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興した。
軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとするものであった。
北伐軍は意気揚々と進発したが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没してしまった。
鄭成功は温州で残存の軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指して攻略を展開し途中の城を簡単に落としながら進んだものの拠点である南京では大敗してしまった。
鄭成功は大陸から一時的に避難し、勢力を立て直すために台湾へ向かった。
当時、日本が鎖国し、東南アジアから数万の日本人が引き上げた空隙を埋めるようにオランダやスペインが植民地を拡大させた。
台湾を占拠していたオランダ人を1661年に追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とした。
なお、16世紀の日本は200万人の軍人がおり、火縄銃の数は50万丁以上を所持しており当時世界最大の銃保有国であった。
また、石見の銀や別子の銅、佐渡の金などの産出量は世界有数の規模であった。
満洲族の清は50万の軍で明朝を倒した順を滅ぼし、中国大陸を支配しており、鄭成功から徳川幕府には20万人の軍を派遣するように要請があったがビルマで明朝の皇帝が殺されとん挫している。
1662年、清への攻撃を行う準備をしている最中に鄭成功は死去した。
その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれている。
清朝が倒れたのち日本の支援をうけて孫文らが辛亥革命を起こし、中華民国が設立された。
第二次世界大戦後の国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党は、17世紀の鄭成功の活躍は非常に身近に感じられ、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)。