サー・バジル・ヘンリー・リデル=ハート
Sir Basil Henry Liddell-Hart
1895年10月31日
- 1970年1月29日
英国の軍事評論家dえ軍事史研究者、戦略思想家
研究では軍事戦略、陸上作戦、核戦略の領域において奇襲、機動戦、間接アプローチ、大戦略などの業績を残した。
20世紀という時代を象徴する戦略思想家と称される。
リデル=ハートに影響を与えた人物には孫子やカール・フォン・クラウゼヴィッツ、ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなどがいる。
彼が影響を与えた人物にはハインツ・グデーリアン、オード・ウィンゲートやバーナード・ブローディなど。
パリのイギリス人牧師の家庭に生まれ、幼少から戦争シミュレーションに強い関心を抱いていた。
また、戦略思考を鍛えるためかチェス愛好家でもあった。
歴史や鉄道、旅行についての本を数多く読破し、小学校では国語と歴史、地理が得意であった。
クリケットとサッカーも好んでいたが病弱であった。
13歳のときに志望した海軍学校の入学試験では身体検査の結果が悪かったために不合格となった。
セント・ポールに進学するとラグビーを好むようになり、航空について強い関心を示すようになった。
この時期には航空雑誌に意見を投稿している。
ケンブリッジ大学に入学し、歴史学を専攻したものの成績は芳しくなかった。
後年になり、ケンブリッジ大学で学んだものを問われた際には最高級の料理とワインの味と答えている。
軍事史に興味を示すようになるのはこの頃からで、1914年に第一次世界大戦が勃発した。
イギリス陸軍を志望し、大学将校養成センターで訓練教育を受け、英陸軍の臨時士官になった。
1914年11月から西部戦線に送られ、12月7日にキングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵連隊の少尉として19歳で任官した。
フランスのモーランコー、次にイープルで勤務した。
ただ、戦場での熱病、負傷により2度本国に送還されており、ごく短期間の勤務になったようだ。
3度目の勤務では1916年7月に
ソンムの戦い
にヨークシャー歩兵連隊の大隊指揮官として攻勢作戦に参加した。
ただ、激しい戦闘となり大隊は壊滅し、自身も負傷でまた本国に送還された。
彼自身の回顧録によれば、この戦闘経験は「目的達成のために要する人的物的損害を最小化する」ことへの問題意識を持たせることとなり、間接アプローチ戦略の原点となったと述べている。
イギリスで歩兵戦術についてのパンフレットを作りフランス駐留英陸軍部隊に配布した。
その後、陸軍の要請を受けて『歩兵操典』を作成した。
1922年から1924年の間は持病の心臓発作などの理由でイギリス陸軍教育隊に教官として配属されたが、強烈な個性のために将校として不適格と判断され、1927年には大尉で退役した。
退役後は作家・ジャーナリストとしての執筆活動を開始し、1929年に『歴史上の決定的戦争』を発表した。
退役後は作家・ジャーナリストとしての執筆活動を開始し、1929年に『歴史上の決定的戦争』を発表した。
『モーニング・ポスト』『デイリー・テレグラフ』『タイムス』の軍事担当記者として勤務したのち1935年から2年間に渡り当時の陸相ホーア・ベリシアの非公式の助言者として働いた。
公職には就かず、軍事史研究者・軍事評論家として研究執筆活動を行った。
また、オペレーションズリサーチ研究者や軍人との交流を活発に行っていた。
第二次世界大戦が勃発した際のリデル=ハートの立場は攻勢に批判的であった。
ドイツの軍事行動を予防し、また戦争の拡大を防止するために外交交渉によるドイツとの妥協の必要性を訴えた。
これはドイツ軍が必ず敗北することを前提とした戦略であり、電撃戦で連合軍が大きな損害を出すと批判されることにもなった。
特に戦時中であったこともあり総力戦の批判は敗北主義と受け取られ、リデル=ハートの名声を貶めることとなった。
1943年にチャーチルが枢軸国の無条件降伏を決定した際には反対の覚書を政府に送付している。
第二次世界大戦が終結してからはオックスフォード大学への就職に努力するが、失敗した。
その後、多くのドイツ軍の将校たちと交流する機会を得て、ハインツ・グデーリアンとも対談した。
冷戦期においてリデル=ハートの間接アプローチ戦略の思想は対ソ政策に向けられていた。
ジョージ・ケナンの封じ込め政策との類似性が認められる。
1954年に『戦略論』を執筆した。
晩年にはステート・ハウスでサロンを開き、数多くの知識人に門戸を開いた。
その結果、世界中の多くの歴史家や軍人がリデル=ハートを師として仰ぐようになった。
1966年にはナイト称号が授与され、その4年後に死去した。