羽束師神社(はつかしじんじゃ)
京都府運転免許試験場から直線で約六百メートル北、西羽束師川に沿った所にある神社で遠くからでも鎮守の森が望まれる京都市内でも最古の神社の一つとされる。
正式には
「羽束師坐高産日神社(はづかしにますたかみむすひじんじゃ)」
と呼ばれ、主祭神として
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
相殿に
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
をお祀りしている。
この両神は、天地開闢の際、高天原に現れて万物を造化したという三神の内の二神(他は天御中主神)で神名の「産霊(むすひ)」とは、万物の生産、生成を意味する言葉で、その成長する力を霊力とすることから、生産向上や諸縁むすび、安産の御利益があるとされている。
また、高皇産霊神は、別に高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれ、御神木や神籬(ひもろぎ)との関係が深い神様。
古代からの神社の多くが社殿が建立される以前、神道では、祭事の際には、巨木(御神木)の周囲に注連縄や玉垣で囲った聖地となる場所(神籬)を造り、そこに神の降臨を招いて祭祀を行っていた。
農耕が生活の中心になるに従い、農耕神(田の神)として信仰され、その降臨を仰ぐ様々な祭礼行事に関わりのある天神とされるようになった。
そして、五穀豊穣を祈願する人々の間に稲霊(いなだま)を崇める「産霊(むすひ)」信仰が育まれた。
収穫時期に新穀を神と共に新嘗(しんじょう)する農耕行事は、その最も重要な祭儀となりました。
高皇産霊神は、皇室や朝廷にとって最も重要な神の一つとして宮中の神祇官西院に設けられた八神殿に祀られました。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が皇祖神とされる以前は、この高皇産霊神が天皇家の祖神だったという説もある。
この祭神を祀る神社は「延喜式神名帳」記載の古社中で数社、京都では宮中を除いて羽束師神社のみとのこと。
桂川や旧小畑川等の諸河川が合流する羽束師周辺地域は、乙訓郡羽束郷と称され、長岡京の都の東端に位置した地域で水上交通の要衝の地でもあり、農耕地として古くから栄えたところであったといいます。
桂川や旧小畑川等の諸河川が合流する羽束師周辺地域は、乙訓郡羽束郷と称され、長岡京の都の東端に位置した地域で水上交通の要衝の地でもあり、農耕地として古くから栄えたところであったといいます。
良質の泥土も採取されることから、土器や瓦の製作、石灰の加熱精製等も行われていた。
そのためか、羽束師(はつかし)」とは、土や泥を意味した言葉で「泊橿部」「泥部」「埿部」等と称した瓦や土器等の製作に携わった職業集団と関係が深い地名と考えられている。
平成の発掘調査によって、神社の西方の長岡京の左京・四条四坊に当る旧址から、祈願の際に献上される土馬が発掘されており、この地域の陶工集団が作ったものと考えられている。
羽束師神社は、この地の羽束氏がその祖神を祀った神社とも見られている。
文政年間に著された「羽束師社舊記」によると、羽束師神社は、古代の雄略天皇二十一年丁己(477)の創建と伝えられ、その後、天智天皇四年(665)に勅命によって中臣鎌足が再建、延暦三年(784)長岡京遷都の際にも再建されたという。
文政年間に著された「羽束師社舊記」によると、羽束師神社は、古代の雄略天皇二十一年丁己(477)の創建と伝えられ、その後、天智天皇四年(665)に勅命によって中臣鎌足が再建、延暦三年(784)長岡京遷都の際にも再建されたという。
「大乗院寺社雑事記」の文明十四年(1482)九月一日条には、「八月二十七日二十八日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあの記録があり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職として盛大な神事能を演じたとの記録がある。
羽束師神社の年中行事としては、五月中旬の羽束師祭(羽束師の舞・こども神輿)、十月中旬の例祭(舞楽奉納)等が知られている。