ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ
Лавр Георгиевич Корнилов
1870年8月18日(8月30日)
−1918年3月31日(4月13日)
ロシア帝国の軍司令官で将軍、ロシア共和国軍の最高総司令官(1917年)から白軍のカリスマ的リーダーでとなった。
二月革命に際しては、ロシア皇帝の家族を逮捕したことでも知られ、探険家にして外交官であった。
日露戦争や第一次世界大戦ではロシアの英雄とされ、特に、失敗に終わった1917年8月のクーデター
コルニーロフ事件
の指導者として知られる。
ウスチ=カメノゴールスク(現カザフスタン)で、ロシア帝国軍シベリア・コサック少尉
エゴール(ゲオールギイ)・コルニーロフ
の家庭に生まれ、母のマーリヤ・イヴァーノヴナは、遊牧カルムイク人の出自であった。
一説には、コサックの大集落
コクペクチンスキイ・スタニーツァ
のコサック兵団の出とされ、コルニーロフの祖先は、エルマーク・チモフェーエヴィチの従士隊(Дружина)としてシベリアへやって来たという。
1881年には、コルニーロフ家はカルカラリンスク・スタニーツァから清との国境にあるセミパラチンスク州ザイサン(現カザフスタン)へ移住した。
1881年には、コルニーロフ家はカルカラリンスク・スタニーツァから清との国境にあるセミパラチンスク州ザイサン(現カザフスタン)へ移住した。
1883年6月には、コルニーロフはオムスクの陸軍幼年兵団(陸軍幼年学校、陸軍士官学校)へ入隊した。
初等学校の第3学年までの教育しか受けていなかったのにも拘らず、勤勉で有能なコルニーロフは急速に陸軍幼年兵団でもっとも優秀な生徒のひとりとなった。
卒業試験に優秀な成績で合格し、軍学校を選ぶ権利を獲得した。
コルニーロフは権威あるペテルブルクのミハイロフスク砲兵学校で1889年から1892年まで勉強に励んだ。
首席での卒業後、トルキスタン砲兵旅団への勤務を命ぜられた。
勤務の他に、独学、兵士への啓蒙へ取り組んだ他、東洋の言語の研究にも従事した。
1895年には、入学試験に合格し、コルニーロフはサンクトペテルブルクのニコライ参謀本部アカデミーの聴講生となった。
1895年には、入学試験に合格し、コルニーロフはサンクトペテルブルクのニコライ参謀本部アカデミーの聴講生となった。
1897年には小銀メダルを受けてアカデミーを終え、コルニーロフ2等大尉はトルキスタン軍管区の勤務に就いた。
1898年から1904年にかけて、トルキスタンにおいて上級副官の司令部付き補佐官から司令部付き中尉と昇進して勤務した。
1898年から1904年にかけて、トルキスタンにおいて上級副官の司令部付き補佐官から司令部付き中尉と昇進して勤務した。
トルクメン人に扮し、アフガニスタンにおいては、イギリス軍のデイダヂ要塞の偵察任務に従事した。
その他、東トルキスタンのカシュガル、アフガニスタン、ペルシャへの一連の長期にわたる探険と偵察遠征とを成し遂げた。
司令部を卒業する生徒の必須科目であるドイツ語とフランス語に加えて、コルニーロフは英語やペルシャ語、ウルドゥー語をよく習得していた。
1903年11月から1904年6月にかけ、イギリスの植民地軍の編成の分析のためインドに滞在した。
1904年6月、コルニーロフ中佐は総司令部の長官としてペテルブルクで勤務した。
1904年9月から1905年2月まで、コルニーロフ中佐は当初は佐官として、のちには第1射撃旅団の司令官として任務に当たった。
1905年2月の瀋陽(ムクデン)からの撤退に際しては、後衛にあって軍の主力を掩護した。
ヴァズィエ村では日本軍の包囲に遭ったが、銃剣突撃によって包囲を突破した。
彼の部隊がその一部として合同した旅団を主力へ合同させた。
第一次世界大戦に際しては、1915年4月にオーストリア=ハンガリー帝国の捕虜となったものの1916年7月に脱走した。
ロシア革命の起こった1917年3月からはペトログラート軍管区の指揮を任された。
ロシア革命の起こった1917年3月からはペトログラート軍管区の指揮を任された。
7月には臨時政府軍の最高総司令官に任命された。
コルニーロフ将軍は、ロシアの混乱状況を憂いて反革命運動に身を投じる覚悟を決め、「大ロシア」が混沌と軍事力の低下によってそのプライドと名誉を失うことをよしとせず、自ら楯となってそのプライドと名誉を守ろうとした。
この反革命運動のため、ソ連時代にはペレストロイカに至るまでコルニーロフの名誉は抹殺されていた。
1917年8月、コルニーロフは「死につつあるロシアの大地を守る」ことを全ロシア国民に呼びかけた。
1917年8月、コルニーロフは「死につつあるロシアの大地を守る」ことを全ロシア国民に呼びかけた。
指揮下の皇室部隊をペトログラートに向けて進軍させ、臨時政府の一角を占めるソビエトを打倒しなければ、ロシアは有効な戦争指導は難しいと考えた。
これに予てからボルシェヴィキら左派勢力を臨時政府から排除したいと考えていた首相の
アレクサンドル・ケレンスキー
もコルニーロフを支持し、軍の首都への導入を依頼した。
9月12日コルニーロフの軍が首都に近づくにつれケレンスキーは不安を持つようになり、自分も打倒されるかもしれないと疑い始めた。
9月12日コルニーロフの軍が首都に近づくにつれケレンスキーは不安を持つようになり、自分も打倒されるかもしれないと疑い始めた。
ケレンスキーは鉄道労働者にストを指令したうえで、ペトログラードにソビエトの活動家を核とする赤衛隊を創設した。
この時点で二月革命時の反乱軍はすでに帰農しているか前線におくられていた。
武器と帰農できない元兵士は豊富でかなりの軍隊を組織することに成功した。
元々戦意の乏しかったコルニーロフ指揮下の部隊は、たちまち行き場を失うこととなり原隊に復帰していった。
コルニーロフも逮捕され、軟禁状態に置かれた。
クーデターが失敗した結果、ボルシェヴィキはその軍事力・政治力を急速に蓄えた。
11月には武力による十月革命を起こして臨時政府を追放したため、すきを見てコルニーロフは再び脱走に成功した。
ロシア皇帝に忠誠を誓うドン・コサック軍の根拠地であるドン川地方にその拠点を定めたコルニーロフは、ノヴォチェルカッスクにあったミハイール・アレクセーエフ隷下の義勇軍を情報戦で支援した。