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2015年07月22日

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー ロシア革命の指導者の1人


アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー 
    Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский
      1881年4月22日
           - 1970年6月11日

 ロシアの政治家でロシア革命の指導者の1人

 臨時政府大臣会議議長(首相)を務めた社会革命党党員。

 

 ロシアのシンビルスク(今のウリヤノフスク)で生まれで父フョードルはシンビルスク古典中高等学校の校長であった。

 シンビルスク古典中高等学校の生徒の中に
   ウラジーミル・ウリヤーノフ
               (後のレーニン)
がおり、レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフの処刑後も、フョードルはウラジーミルを擁護していたという。



 アレクサンドルはペテルブルク大学を卒業後は、弁護士として働き、1912年に社会革命党(SR)議員となった。

 同年4月、東シベリアのレナ川流域の金鉱で労働者らが軍に射殺された
   レナ虐殺事件
が起こるとケレンスキーは調査委員会の委員長となり、一躍、改革派議員としてその名を知られるようになった。
 

 1917年2月、ペトログラード(サンクトペテルブルク)におけるデモをきっかけに2月革命が開始された。

 当時改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは、ペトログラードの労働者ソヴィエトの副議長に任命された。
 その後、臨時政府が組織されると、ソヴィエトを代表して入閣し法相に就任した。


 この時、兵士と労働者の人気はソヴィエト出身のケレンスキーに集まっており、臨時政府の実権も彼が握っていた。


 5月には軍事大臣に就任し、市民改革および第一次世界大戦の戦争継続を主張して陸軍の総司令官をアレクセーエフから
   ブルシロフ
に代え、ドイツに対する攻勢を命令した。

 しかし、革命により軍部の指令系統が破綻しつつあるロシア軍は攻勢するタイミングに失敗し、逆に7月14日ドイツ東部軍は反攻に転じ、ロシア軍の前線は全面にわたり崩壊した。


 7月13日ブルシロフを更迭しコルニーロフを新たな総司令官に任命した。
 自身も首相の座についた。


 コルニーロフはボリシェヴィキによる混乱がロシア軍を危機に陥れていると考えた。
 前線からペトログラードに部隊を投入してボリシェヴィキを排除するためクーデターを決行しようと試みた。


 9月9日ケレンスキーはコルニーロフの更迭を命令したが、コルニーロフは命令を無視して配下のコサック部隊を首都へと向かわせた。


 ケレンスキーはボリシェヴィキの赤軍に助力を要請した。
 これを見たコサックはコルニーロフお命令を拒否しコルニーロフは逮捕された。

 ただ、臨時政府の影響力は低下しボリシェヴィキの勢力が増大することにつながっていった。
 

 10月上旬になるとフィンランドから帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府の打倒を呼びかけた。


 これを聞いたケレンスキーは10月24日早朝に、士官学校生徒などを用いてボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。

 トロツキー率いる赤軍はこれの襲撃に対して直ちに反応し、印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領した。
 これに続き、ボリシェヴィキはかねてからの計画通り10月25日にペトログラードで全面的な蜂起を行った(十月革命)。



 こうした情勢の不利を悟ったケレンスキーはペトログラードの冬宮を脱出した。
 彼はこの時女装し、アメリカ国旗がはためく車に乗っていたといわれる。


 ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚はすべて逮捕・監禁された。
 その後、追放もしくは脱走・亡命した。


 プスコフに逃れたケレンスキーは、この地の騎兵部隊を率いて再び首都へ帰還しようと試み、ツァールスコエ・セローを占領したものの赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後フランスに亡命した。 

   


 ケレンスキーはその後も終始一貫して白軍を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難し続けた。
 その後、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けて彼を監視した。

 一時は「無力化すべし」とまで中央上層部に対して報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。

 

 第二次世界大戦の危機が迫ると、フランスから米国に亡命した。

 1940年代以降、米国内で大学講師や、研究所の職員などをしながら職を転々と渡り歩いた。
 

 ケレンスキーは革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいて、ユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。
  

     
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posted by まねきねこ at 03:00| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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