王 莽(おう もう)
前45年−23年
新朝の皇帝
前漢の元帝(劉奭)の皇后
前漢の元帝(劉奭)の皇后
王政君(孝元皇后)
の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。
王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父親にあたる。
孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。
正妻は宜春侯王咸の娘にあたる。また、王永の弟で、王光の叔父。
魏郡元城県(現河北省邯鄲市大名県の東方)で生まれ、皇后に立てられた伯母
王政君
の縁故で伯父達が列侯に封ぜられた。
高官として裕福な暮らしを送る中で、父親の王曼と兄の王永が早死にしたために王莽の一家のみが侯に封ぜられないまま、生活が維持できず貧しかったという。
王莽は、沛郡の陳参に師事して『礼経』を受け、身を勤めたうえ学を広め、儒生並の服装をして母と兄嫁に仕えた。
また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育したため名声を博したため、王莽の妻が不平を述べたとも伝えられる。
壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けた。
王鳳は死に臨んで成帝に王莽を託した。
これ以後、王商や王根の推挙と皇太后となった伯母の後ろ盾を背景に王莽は順調に出世の階段を歩み始めた。
親戚にあたる淳于長を失脚させて大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどに強くなっていった。
しかし、外戚を除こうとした哀帝が即位すると罷免されたうえ封国へ追いやられた。
知古の者たちの助力を求めて、国政復帰の嘆願を多く出させtえ長安に呼び戻させた。
永始元年(前16年)、新都侯に封ぜられた。
哀帝を殺害し、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪した。
中山王劉衎(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。
その後、古文経学の大家だった劉歆を始めとした儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥・符命に基づいた政策を実施した。
一方、民衆の支持を獲得するためには手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで獄に送って、共に自殺に追い込んだ。
娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった。
その後、5年には14歳になった平帝が死去し、毒殺が噂された。
こんどは遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を皇太子に立て、自らは「仮皇帝」「摂皇帝」として朝政の万機を執り行った。
更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。
哀章という人物が高祖の預言という触れ込みの「金匱図」「金策書」なる符命を偽作した。
これを典拠として居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位したうえで新を建国した。
太皇太后として伝国璽を預かっていた孝元皇太后王政君は、玉璽の受領にやってきた王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒した。
それでも玉璽の受領を迫られると玉璽を投げつけたうえで「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と悪態をついたと歴史書「史書」に伝えられている。
王莽は周代の治世を理想としたうえで「周官」という書物を元に国策を行った。
現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動も停止した。
民衆の生活は漢末以上に困窮したため怨嗟の声が大きくなった。
匈奴や高句麗などの周辺民族の王号を取り上げたたうえ、華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招してしまった。
それを討伐しようとしたが失敗したうえ、さらには専売制の強化なども失敗してしまい新は財政も破綻し困窮した。
・ 前漢・五銖
経済の悪化や税金の引き上げなどに伴い生活の立ち行かなくなった
農民の反乱(赤眉の乱)
が続発した。
王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られた。
これで各地に群雄が割拠して戦乱となった。
遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が侵攻したため、大混乱に陥った。
王莽はその混乱の中で杜呉という者に暗殺された。