エステ家(famiglia d'Este)
中世以降のイタリアの有力な貴族の家系
ルネッサンス期において学芸を重んじ、保護・発展に寄与し、美術の保護政策を実践したことでも知られる。
起源はイタリア共和国北西部の州(州都はジェノヴァ)にあるリグーリア地方やミラノを支配していた
オベルテンギ家
の支流とされる。
東ローマ帝国領であった北イタリアをゲルマン系ランゴバルド族が568年に
アルボイーノ王
が侵攻し奪取して
ランゴバルド王国
を興したたのち、774年にカール大帝に滅ぼされるまで200年近く存続した。
なお、北イタリアのロンバルディアという地名もランゴバルド王国に由来している。
ゲルマン系ランゴバルド人たちはローマ帝国を構成していたラテン人との混血を奨励し、自らの文化を棄てる事で反発を抑え込み、積極的に同化を図ったとされる。
これにより統治は安定し、王国は蛮族が開いた王朝としては最も長く持つことに成功した。
エステ家の名前の由来はランゴバルド王国の貴族の流れをくむ11世紀の当主
アルベルト・アッツォ2世
がエステ辺境伯の地位を獲得し、子孫がその世襲に成功したことに由来している。
1196年にエステ辺境伯領はフェラーラ侯爵領に改められ、エステ家当主の称号もフェラーラ侯となった。
1240年にフェラーラのシニョリーア(僭主国家体制)を確立し、。およそ400年にわたって統治した。
1289年にはオビッツォ2世がモデナ侯・レッジョ侯を兼ねた。
1452年にはモデナとレッジョが、1471年にはフェラーラが侯爵領から公爵領に昇格した。
一族の出身でマントヴァの
ゴンザーガ家
に嫁いだイザベラ・デステ(イザベッラ・デステ)はルネサンス期の最も有名な女性のひとり。
イザベラの弟アルフォンソ1世は、ローマ教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィア・ボルジアと結婚した。
当時のフェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つで、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まった。
ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げたイタリア戦争(1494年 – 1559年)の際、アルフォンソ1世は神聖ローマ帝国と結んだ。
教皇クレメンス7世にアルフォンソ1世が一時幽閉されたため、これがローマ略奪(1527年)の引き金になった。
アルフォンソ1世とルクレツィアの孫アルフォンソ2世の時代にも宮廷文化が栄え、フェラーラはマニエリスム美術の中心の1つとなった。
アルフォンソ2世には子がおらず、1597年に彼が亡くなった後は従弟のチェーザレが継いだ。
ただ、継承者が一時不在となった混乱に乗じて、翌1598年、教皇クレメンス8世がフェラーラを奪取、以後はモデナとレッジョのみを領有した。
ナポレオン・ボナパルトにより公国が1796年に征服されチスパダーナ共和国に編入された。
1803年に最後の当主エルコレ3世の死去で男系が絶えた。
公国は1814年に再興されエルコレ3世の1人娘マリーア・ベアトリーチェとその夫フェルディナントの息子フランチェスコ4世(オーストリア=エステ家)が公爵となった。

