吉田 勘兵衛
慶長16年(1611年)
- 貞享3年7月26日(1686年9月13日)
江戸時代前期の材木商
吉田新田を開墾したことで知られている。
高島嘉右衛門、苅部清兵衛らとともに横浜三名士といわれ、大正13年(1924年)春、従五位が贈られている。
摂津国能勢で戦国大名
摂津国能勢で戦国大名
の一族である数掛山城主の波多野秀親の孫として生まれた。
江戸での商売に憧れ、血縁関係のある能勢領主
能勢頼次
に従って江戸に移り、日本橋本材木町に木材と石材の店をはじめた。
防火対策の乏しい当時の江戸では火事が多発して木造家屋が焼失していたことから商売が繁盛した。
能勢頼次の娘が
近江局
として大奥総取締となり老中の安藤氏らの後ろ盾を得て幕府御用達となり、江戸城の修理も行うまでになり莫大な資産を作った。
新田開拓に関しては、初め隅田川沿いの湿地帯、千住中村の音無川流域の湿原(現在の南千住付近)を干拓した。
勘兵衛は木材・石材の販売だけでなく農業経営にも人並みすぐれた才を見せたという。
南千住に開いた新田からは数年のうちに700〜800石の収穫を上げるに至った。
ただ、江戸幕府から社の建立を許可される1000石には届かなかったため、埋め立てに適した横濱の入海に目をつけ、明暦2年(1656年)に幕府の許可を得て新田の開発に再び着手した。
数々の苦労があったものの新田が完成し、彼の功績を称えて吉田新田と名付けられた。
4代将軍徳川家綱から苗字帯刀を許され、子孫は代々この新田に住み続けることとなった。
なお、江戸の木材・石材商の店はその後、起立人として札差業を営むなど隆盛を誇ったが、やがて番頭に店を譲渡し、子孫も横濱の地へ移住したという。
貞享3年(1686年)7月26日、病気のため自宅で死去した。
大発展を遂げた横浜の地を眺める地、久保山の地に静かに眠っている。
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