前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる
が新朝を建てると名目的な価値の貨幣が数多く鋳造された。
新朝の国内経済は大きく混乱した。
25年に後漢が成立したが建国の混乱のため当初は貨幣鋳造を行う余裕がなかった。
40年になりようやく
五銖銭鋳造
が決定し、翌年より鋳造が開始された。
なお、後漢ではその王朝を通して改鋳を行うことはなかった。
ただ、時期による精粗があり、特に後漢末の
董卓の乱
では董卓五銖銭と称される粗悪銅銭が発行された。
各種銅銭を打ち抜いて使用し、磨辺銭、剪輪銭として外側は削り小型化させたもの。
これにより私鋳銭が広く流通し五銖銭は貨幣としての価値を失った。