前漢の武帝(前156年6月7日−前87年3月29日)は
郷挙里選の法
と呼ばれる官吏任用法を採用した。
これは各地方郷里から才能のある人物を推挙するもので、武帝は特に儒教の教養を身につけた人物を登用した。
董仲舒の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした。
高祖劉邦が冒頓単于に敗れて以来、漢はその孫の軍臣単于が君臨する匈奴に対して低姿勢で臨んでいた。
武帝はこれらの体制と
文景の治
による多大な蓄積を背景に、反攻作戦を画策した。 かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫を派遣した。
大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙って宿敵匈奴への外征を開始したものの同盟は失敗に終わった。
張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。
武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせた。
両将軍の活躍で幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。
李広利に命じて、大宛を征服し、汗血馬を獲得した。
また南越国に遠征し、郡県に組み入れた。
衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする漢四郡を朝鮮に置いた。
前漢の最大版図を築き、武帝の治世は前漢の全盛期となった。
ただ、積極的な外交政策が採用された結果、外征にともなう歳出が増加し国庫を逼迫させた。
その財政立て直しを目的に
五銖銭鋳工
が計画された。