永楽通宝(えいらくつうほう)
中国の明朝第3代皇帝
永楽帝
の時代に作られた銭貨のこと。
勘合貿易が拡大した室町時代に貿易清算の対価として日本へ大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通した。
一般的には永楽銭とよばれていた。
形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられている。
表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。
材質は銅製で貨幣価値は1文として通用した。
徳川家康が、江戸幕府を開いていた慶長13年(1608年)には通用禁止令がだされ、やがて大量生産が軌道に乗った寛永通宝等の国産の銭に取って代わられている。

明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣に切り替えられていた。
当時の日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。
そのため、日本との
貿易決済用銭貨
として永楽通宝が鋳造されたため、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら日本を中心とした国外で流通していたと考えられてきた。
洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で
大中通宝
という銅銭を発行しており、統一後も洪武通宝を発行していた。

近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれていることが分かった。
また永楽9年(1411年)に浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられていることが分かり、近年では少なくても15世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている。
織田信長は、永楽通宝の旗印を用いている。理由は明らかでないが、貨幣流通に早くから注目していたためであるとも言われる。
明の永楽帝の時代に永楽9年(1411年)から作られた
永楽通宝(永楽銭)
は当初は明の国内でも流通していた。
しかし、中国では新銭よりも、流通の実績のある宋銭や開元通宝などが好まれていたことから15世紀後半には明では次第に使用が忌避されるようになり、行き先を失ったため室町時代後期に勘合貿易や倭寇を通じて大量に日本に輸入された。

日本国内では皇朝十二銭の鋳造が停止されたため、代替として輸入されていた宋銭が数百年の流通により磨耗、破損したものが多くなっていた。
新たに輸入された永楽銭は良質の銅銭であったため、東日本を中心に江戸初期まで基本貨幣として使われている。
一方で西日本では従来通り宋銭、鐚銭の流通が中心であった。
明朝時代には宋銭を私鋳していたという記録も発見されている。
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