高島嘉右衛門
1832年12月24日(天保3年11月3日)
- 1914年(大正3年)10月16日)
横浜の実業家および易断家として知られる。
幼名は清三郎で後に嘉衛門、嘉右衛門に改名した。
明治治初期に横浜港の埋め立て事業を手がけたことで横浜の発展に寄与しており、「横浜の父」あるいは吉田勘兵衛、苅部清兵衛らとともに「横浜三名士」ともいわれる。
彼の業績は高島町という地名にも残っている。
江戸三十堀間町(現 東京都中央区銀座)で父親
1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に大旅館「高島屋」を建設した。
遠州屋嘉衛門(本姓 薬師寺)
母は「くに」の第六子として生まれる。
薬師寺嘉衛門は、常陸国新治郡牛渡村出身で江戸に出て材木店「遠州屋」を営んだ。
姉が2人おり、弟に高島徳右衛門がいるが、兄は皆夭折したため嫡子となる。
幼少のころは父の教えに従い、四書五経や六諭衍義などを学んだ。
何度か読めばすべて覚えてしまうほど記憶力がよく、14歳のころ父の営む材木商兼普請請負業や盛岡藩製鉄事業に関わるようになる。
父や弟とともに東北で7年間働いた。
江戸時代幕府が財政難に陥った旗本・御家人を救済するために、債権者である札差に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令「棄捐令」による影響や次姉の養子の放蕩により父の死後に莫大な借金があることがわかり、その返済に奔走した。
その頃父の名「嘉衛門」を襲名した。
22歳の時に材木屋を始めた。
安政の大地震の時に江戸では大火が起こり、被害を受けた佐賀藩邸の普請や材木の売却により2万両の儲けを得た。
盛岡藩藩邸普請の際、暴風雨に見舞われ材木を流出させて損失させたことや盛岡藩の支払い拒否により同額相当の負債を抱えることになった。
佐賀藩家老・田中善右衛門の斡旋で1859年(安政6年)に横浜で伊万里焼の磁器や白蝋を一手に販売する肥前屋を開店した。
その際、外国人を相手に、国内と国外の交換比率の違いを利用して金貨を売り多めに銀貨を受け取って莫大な儲けをした。
ただ、当時この為替の交換方法が禁止されていたため幕府に目を付けられた。
捕縛を逃れて潜伏するも逃げ切れなくなりその後自首している。
鉱山の採掘にも手を出しており、外国人相手にご禁制の小判を密売した罪で捕縛され、1860年(万延元年)に入牢したのち1865年(慶応元年)に釈免されている。
この時「嘉右衛門」に改名した。
咎人のため江戸所払いになり、生計を求め横浜に向かい、店を借りて材木商を始めた。
それまでの知古を活用してアメリカ公使の口利きでイギリス公使のハリー・パークスから公使館建築を請け負った。
このことを足掛かりにして他の多くの外国人から建築依頼を受けるようになった。
1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に大旅館「高島屋」を建設した。
ここは明治政府高官などと人脈を作る社交場としても利用した。
このころ盛岡藩が官軍に抵抗したために政府からの締め付けのため70万両の献金が必要になり嘉右衛門に相談した。
天候不順により飢饉の問題などもあったため、これを成し遂げ藩とその領民を救った。
1870年(明治3年)には物流の確保といったことから社会インフラの整備の一環として伊藤博文と大隈重信に京浜間鉄道敷設の必要性を説明した。
その後、大隈より事業参加の打診があり、線路短縮のために横浜港埋め立て(現在の西区野毛町〜神奈川区青木町)を行った。
なお、経済的な問題もあり、この事業の引き受け手がなかなか見つからず、埋め立て開発した者には鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていた。
ただ、高島は埋め立てた敷地を明治政府に献上したため、その偉業を称えて高島町と名づけられた。
ドイツの商会が神奈川県のガス会社建設の申請をしたため、外国に権益を奪われることを憂い、仲間数名と「日本社中」を結成した。
ガス会社建設の権利を神奈川県から得て、フランス人技師を招いて1872年に横浜瓦斯会社を創業して建設した同年10月31日(明治5年9月29日)夕刻、横浜の地にガス灯を灯した。また、同時にガス灯を利用した芝居小屋港座も開設した。
なお、10月31日のガス記念日はこれに由来する。
1874年(明治7年)には東京でのガス燈建築を計画した。
同年、横浜港〜函館港間の定期航路を開通させたが、採算が合わずに翌年中止を決めている。
1871年(明治4年)、西洋人の教師を雇い語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)を創設した。
なお、学校には福澤諭吉を招聘したが実現せず、福澤は代わりに弟子の海老名晋、荘田平五郎、小幡甚三郎ら慶應義塾の高弟を講師に推薦して派遣した。
1873年(明治6年)には学校設立の功により明治天皇から三組の銀杯を下賜されるも学校は1874年(明治7年)に焼失した。
同校からは寺内正毅、本野一郎、宮部金吾といった人材が輩出している。
有能な貧しい学生には経済的援助もしたという。
また、この時期に下水改良工事も手がけている。
1876年(明治9年)に大綱山荘(現 横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲する。
1877年、ガス局が高島に功労金を贈ったことが問題になり、市民を巻き込む訴訟騒ぎとなった。
1887年(明治20年)に海防費1万円を献納して従五位勲四等に叙任した。
その後愛知セメント株式会社を興している。
1888年には、日本に亡命した朴泳孝を別邸に住まわせた。
1892年(明治25年)には北海道炭礦鉄道株式会社の社長に就任した。
石狩、十勝では拓殖事業を行った。
1893年に横浜の財産をすべて高島嘉兵衛名義に変更し、一家で北海道へ移住した。
また東京市街鉄道株式会社社長を歴任した。
珍しいところでは清水次郎長の開拓した富士の裾野も購入している。
1896年には、帝国貯蓄銀行の開業にも関わった。
明治初期に横浜港の埋め立て事業を手がけたことで横浜の発展に寄与したため、「横浜の父」あるいは吉田勘兵衛、苅部清兵衛らとともに「横浜三名士」ともいわれる。
なお、その業績は高島町という地名にも残っている。