董 仲舒(とう ちゅうじょ)
紀元前176年? - 紀元前104年?
中国前漢時代の儒学者でその思想の最大の特徴は「災異説」という。
なお、「災異説」とは意志をもった天が自然災害や異常現象を起こして人に忠告を与えるという儒教の思想。
儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物でもある。
広川(現在 河北省景県)に生まれ、『春秋』学の一派である公羊学を修めた。
前漢の第6代皇帝の景帝(前188年−前141年)の世に博士になる。
武帝の建元元年に行った
賢良対策
の中で、儒家以外の諸子百家を排斥して儒学を国家教学として据えるよう献策し、嘉納された。
以降、帝国内では政治的重要な地位を得るためには儒学的教養を身につけることが必須となった。
また、郡国に太学(たいがく)を置くことを上奏し、結果五経博士が置かれた。
そこでは博士がそれぞれの専門とする経学を教授することとなったと伝えられる。
なお、五経全ての専門家がそろうのは、武帝以降の時代に下る。
『春秋』の内奥を探求し、陰陽説と融合させて災異思想を展開した。
清廉潔白な人柄で、徳高く、ただ学問の究理にのみ人生を費やした。
博士時代は部屋に帷を下ろして講義を行い、3年の間、庭に現れなかったという。
弟子の数も非常に多く、新参者の弟子は、兄弟子から講義を受け、師である董仲舒の顔を知らない者までいた。

