ウィリアム・ジョセフ・"ワイルド・ビル"・ドノバン
William Joseph "Wild Bill" Donovan
(1883年1月1日 - 1959年2月8日)
戦略諜報局(OSS)の創設者、また長官としてその名を知られる。
アメリカ情報機関の父」(Father of American Intelligence)、「CIAの父」(Father of Central Intelligence)などと通称される。
第一次世界大戦従軍者として、4つの最高級軍事勲章
名誉勲章
殊勲十字章
陸軍殊勲章
国家安全保障褒章
を受章したうえ、銀星章や名誉戦傷章も受けている。
ドノバンはニューヨーク州バッファローでアイルランド系移民の息子として生まれた。
父ティモシー・P・ドノバン(Timothy P. Donovan)はコーク州出身、母アンナ・レティティア・"ティッシュ"・レノン(Anna Letitia "Tish" Lennon)はアルスター出身だった。
セント・ジョセフ・カレッジエイト・インスティチュートを経てナイアガラ大学に入学した。
その後、コロンビア大学のフットボールチームで活躍したという。
愛称「ワイルド・ビル」(Wild Bill)は、この頃に付けられた。
1905年にコロンビア大学の法科大学院であるコロンビア・ロー・スクールを卒業、ウォール街に影響力を持つ弁護士の1人となる。
同時期にファイ・カッパ・サイやマルタ騎士団の構成員となる。
1912年、ドノバンはニューヨーク州民兵(New York State Militia)にて騎兵隊を組織し、自らその指揮官となる。
この部隊は連邦軍がパンチョ・ビリャ遠征に出動していた影響で、1916年に動員令を受けて
アメリカ=メキシコ国境の警備
に回されている。
第一次世界大戦中、少佐となったドノバンは第42歩兵師団第165連隊(英語版)第1大隊の大隊長を務めた。
第一次世界大戦中、少佐となったドノバンは第42歩兵師団第165連隊(英語版)第1大隊の大隊長を務めた。
同連隊はFighting 69thとして知られる第69ニューヨーク義勇兵連隊と同一の部隊。
165はそれと別に連邦軍にて与えられている部隊番号とされる。
フランス戦線ではコロンビア大の同窓生である詩人ジョイス・キルマーがドノバンの副官を務めていた。
1918年10月14日から15日にかけて、フランスのセント・ジョルジュ付近で発生した戦闘における功績から、ドノバンは名誉勲章を受章した。
終戦までに大佐となり、2つの殊勲十字章と2つの名誉戦傷章を受章した。
1922年から1924年、ニューヨーク州西部地区の連邦検事を務め、積極的な禁酒法違反の取締で知られた。
1924年、大統領カルビン・クーリッジは司法長官ハリー・M・ドアティの代理補佐官として司法省独禁法取締部門に登用された。
1922年、共和党員としてニューヨーク副知事選に出馬するも落選した。
その後、1932年の知事選ではジャーナリストの
ジェームズ・J・モンタージュ
が個人顧問たる選挙参謀として選挙運動の支援に当たったがやはり落選している。
第二次世界大戦前、ドノバンはヨーロッパ各国を巡ってイタリアの
第二次世界大戦前、ドノバンはヨーロッパ各国を巡ってイタリアの
ベニート・ムッソリーニ
など多くの要人との会談を行った。
現実的な視点と外交経験から、フランクリン・ルーズベルト大統領から注目される官僚の1人となり、同時に個人的な親交も得ることになった。
1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発したことを受けてルーズベルトは戦時体制への移行を決断した。
ルーズベルトは戦時体制の基盤を形作るべく、信頼しうる人物を選ぶことになる。
海軍長官フランク・ノックスがドノバンを推薦し、以後ルーズベルトは様々な重要任務をドノバンに任せるようになった。
1940年から1941年にかけて、ドノバンはノックスとルーズベルトより
「英国がドイツの侵略に耐えうるかどうか調査せよ」
との任務を受けて非公式に英国を訪問している。
英国では軍の将校をはじめ、首相ウィンストン・チャーチルや諜報機関幹部など、戦争遂行に関与する要人らと何度か会談の場を持った。
帰国後、ドノバンは英国が十分に備えているという調査結果、それに加えて米国でも英国のそれをモデルとした諜報機関を設立する必要性があることを報告した。
1941年7月11日、ドノバンは
情報調査局
(Office of the Coordinator of Information, OCI)
の長たる情報調査官(Coordinator of Information)に就任した。
当時、アメリカにおける対外諜報活動は陸軍、海軍、連邦捜査局(FBI)、国務省などがそれぞれの利害関係に基づき独自に行なっていた。
当然、獲得した情報の共有も全く行われていなかった。
情報調査官のポストはこれらの諜報活動を統括するものとされていたが、利害対立の調整など各機関の縄張り争いに悩まされることになる。
多くの諜報機関の長は旧来からの分断されたシステムの中で獲得した権力を手放すことに難色を示していた。
当時ドノバンのライバルだった
ジョン・E・フーバー
が長官を務めたFBIは、南米における諜報活動の自主権を主張していた。
ドノバンは中央集中的な諜報システムの基礎を徐々に強化し勢力を広げていった。
1941年10月には
英国軍情報部第6課(MI6)
の支局からロックフェラー・センター3603号室を引き継ぎ、情報調査局ニューヨーク本部を設置した。
ここの本部長はアレン・ダレスに依頼した。
1942年、COIは
戦略諜報局(Office of Strategic Services, OSS)
に改組された。
ここの長官となったドノバンは陸軍大佐として現役復帰を果たした。
ドノバンの指揮のもとOSSは世界各地に展開し、ヨーロッパやアジアでは数々のスパイ活動やサボタージュ任務を成功させた。
一方では、FBI長官フーバーの激しい抵抗の結果、南米が管轄に含まれることはなかった。
南西太平洋戦線指揮官の
ダグラス・マッカーサー将軍
もOSSに対する反感からフィリピンにおける活動を禁止している。
なお、マッカーサー一族はスペイン戦争後のフィリピンで莫大な資産を持ち植民地の利権網を構築していたことも背景にある。
OSSの活動は長らく機密扱いされていたが、1970年代から1980年代にかけて、OSSの歴史に関する重要な箇所が機密解除され公的記録となった。
第二次世界大戦終結直前の1945年初頭、ドノバンはOSSを戦後も存続させる為に様々な働きかけを行っていた。
ルーズベルト大統領が4月に死去すると、大統領との個人的な親交に基いていたドノバンの政治的権限は大幅に弱体化した。
ドノバンはOSSの維持を強く訴えたものの
ハリー・トルーマン新大統領
ら大多数がこれに反対した。
トルーマンは個人的にもドノバンを嫌っており、FBIの国際活動権限強化を目論むフーバーもこれに同調した。
世論の反応もドノバンに厳しく、保守的な批評家らは
「アメリカン・ゲシュタポ」
とOSSを評した。
1945年9月、トルーマンの命令でOSSが解散されると、ドノバンは官職を退き市民生活へと戻った。
OSSの各部門は別部署として解体を免れており、2年も立たない内に中央集中型の諜報機関
中央情報局(CIA)
が設立された。
ドノバンはCIAの設立に表面的には何も関与していない。
間接的には親交の深かった元部下のアレン・ダレスらを通じて設立に向けて働きかけを行なっていた。
第二次世界大戦中にOSSという巨大な諜報機関を率いていたドノバンの諜報機関の統一という主張に対しては権益を奪われ情報を制御されかねないため陸軍省および海軍省、そしてフーバーのFBIからの激しい反対があった。
トルーマンは組織の設置に先立って、1946年にシドニー・ソワーズ海軍予備役少将をCIA長官に任命した。
その後、まもなく強い発言権が認められていた
ホイト・ヴァンデンバーグ空軍大将
と交代している。
1947年には正式にCIAの設置と権限を定めている国家安全保障法が成立した。
国家安全保障法(National Security Act of 1947)と1949年中央情報局法(Central Intelligence Agency Act of 1949)の制定となった。
これと共にロスコー・H・ヒレンケッター海軍少将が公的な初代CIA長官に任命された。
第二次世界大戦後、退役したドノバンは戦前と同じ弁護士の仕事に戻った。
最後の公的な任務はニュルンベルク継続裁判における
テルフォード・テイラー主席検事
の特別補佐であった。
また、逮捕されたOSSエージェントの拷問や処刑に関与したナチス幹部の裁判にも立ち会ったという。
第二次世界大戦の活動に対し、ドノバンは陸軍殊勲章を受章している。
これは非戦闘部門の人員にとっては事実上最高級の勲章に当たる。
さらに英国からはナイトの称号も与えられている。
戦犯裁判が終わりウォール・ストリートの
ドノバン、レージャー、ニュートン&アーヴィン法律事務所
(Donovan, Leisure, Newton & Irvine)
に戻る。こうして公的な役割を退いた後も、彼は諜報活動の専門家として大統領らから助言を求められることを想定し、それに備えていたという。1953年、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって駐タイ大使に任命され、1954年まで務めた。