イェルマーク・チモフェーイェヴィチ
Ерма́к Тимофе́евич
(1532年(1542年)‐1585年8月5日(6日)
ロシア民話の英雄でシベリアの探検家 コサックの頭領
イェルマーク、エルマークとも。
シベリア探検の成功がロシアのシベリア進出を招いたといわれている。
イェルマークの本名は不明だが伝承によれば本名はヴァシーリーとなっているものの、それを裏付ける史料がない。
出身についても不明な点が多い。
イェルマークはヴォルガ川で活動するコサック小隊の頭領(アタマン)であった。
イェルマークはヴォルガ川で活動するコサック小隊の頭領(アタマン)であった。
ロシアの大商人ストロガノフ家から1558年に、イェルマークは
「カマ川沿いの豊かな地域」
を植民地化する許可を得た。
1574年にはウラル山脈のカマ川水系とオビ川水系が入り組んだ低い部分を越えて、トゥラ川とトボル川の地域へ達した。
1577年ごろ、ストロガノフ家はシベリアにおける権益を
シビル・ハン国
からの攻撃から守るため、イェルマークをシビル・ハン国との戦いの責任者に任命した。
(なお、シビル・ハン国は西シベリアに存在した、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の系統に属すテュルク系国家のこと。)
1579年または1581年に、イェルマークは東進を開始し、シビル・ハン国を攻撃した。1582年にシビル・ハン国の首都カシリク近郊のイルティシ川のチュヴァシ岬で起きた戦い(チュヴァシ岬の戦いでイェルマークは勝利してカシリクを占領し、シビル・ハン国の残党は首都を放棄して草原へ逃げた。
1585年8月5日または6日、イェルマークの部隊は、シビル・ハン国の残党から急襲を受け(Battle of Wagay River)、壊滅状態となった。
1585年8月5日または6日、イェルマークの部隊は、シビル・ハン国の残党から急襲を受け(Battle of Wagay River)、壊滅状態となった。
イェルマーク自身も傷つき、戦死した。
その後もロシアのシビル・ハン国へ攻撃は続き、最後の君主クチュム・ハンが抵抗を続けた。
その後もロシアのシビル・ハン国へ攻撃は続き、最後の君主クチュム・ハンが抵抗を続けた。
1585年8月5日または6日には奇襲攻撃により、コサック軍を壊滅させ、イェルマークを戦死させた。
しかし、ロシアの攻撃が続きシビル・ハン国は1598年にオビ川(ウマル川)での戦い(Battle of Urmin)で滅亡した。