モンク・イーストマン(Monk Eastman)
1873年−1920年12月26日
NY市ブルックリンの東欧ユダヤ系移民の家庭に生まれのギャングで1890年代後半から1910年後半にかけ暗躍した。
本名 エドワード・オスターマン(Edward Osterman)
ジョーゼフ・"ジョー"・モリス(Joseph "Joe" Morris)、ジョー・マーヴィン(Joe Marvin)、ウィリアム・"ビル"・ディレイニー(William "Bill" Delaney)、エドワード・"エディ"・ディレイニー(Edward "Eddie" Delaney)など多数の偽名を使っていた。
大の動物好きで100匹以上の猫や鳥を飼っていたという。
曲がった鼻とつぶれた耳と全身に傷があることで知られており、犯罪組織
イーストマン・ギャング
を結成し、リチャード・フィッツパトリック、マックス・ツヴェルバッハ、ジャック・ゼリグ(Jack Zelig)などを部下に持っていた。
金を儲ける嗅覚が優れており
労働運動
を利用して金を稼ぎ出すために最初に介入したギャングのひとりでもある。
使用者側から団体交渉などで労働条件等の改善を利用して出来るだけ資金を引き出すべく、手下を使い交渉の邪魔になるようなストライキをする労働者やスト破りをする者を脅し、従わなければ見せしめに半殺しの目に遭わせて病院送りにした。
なお、誰を襲うかは使用者側の要求で誰が多くイーストマンに金を払ったかによって決めていたという。
短いとずんぐりした体格のイーストマンは通りを体を横に振りながら歩く猿に似ていたので”モンク”の愛称で呼ばれた。
ローワーイーストサイドに粗いナイトクラブの
アーヴィング・ソシアル・クラブ
で用心棒となった。
4フィートの棒を使って、数ヶ月で49に近い頭部を強打し病院送りにした。
レストランを経営する父親のもと育った。
1895年ごろNY市のロウアーマンハッタンに移住し、最初の職業は警官だった
腐敗した民主党政治団体
"タマニー・ホール"
は、選挙の時期になると、1200名以上のイーストマン一派による選挙権を有した有権者を選挙に行かせる運動
"Get out the Vote"運動
に依存するのが勝利のための常道となっていった。
「バワリー地区(ユダヤ・ローワー・イースト・サイド)」を縄張りとするイーストマンはまた、イタリア系ファイブポインツギャングの
ポール・ケリー(Paul Kelly 1876-1936)
との間で資金源を確保するため縄張り争いを繰り返した。
タマニー協会の圧力で釈放されて「目立った行動を止めるように」との警告を受けていた。
従うことが少なかったため、見放され、1904年に逮捕されたが政治的な圧力はなく釈放なく留置されギャングとしての勢力が削がれ地位を落とした。
第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)では志願兵として米国陸軍第27部隊の第106歩兵隊
"オライアンズ・ラフネックス"
に入隊し、フランスで戦い兵隊として活躍、終戦後にアメリカに戻ったのち1919年に除隊した。
その後ニューヨーク州知事アル・スミスにより、奪われていた市民権を回復されている。
1920年12月26日の夜に腐敗した酒密造取締官
ジェリー・ボーハン(Jerry Bohan)
と口論になり14番街の路上で拳銃で殺害された。
遺体は軍葬の礼により埋葬された。
ボーハンは第1級殺人罪で有罪となったものの3年後に出所している。