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2014年12月26日

フィリップ・"ラスティー"・ラステリ 「ボナンノ一家」のボス


フィリップ・"ラスティー"・ラステリ
          Philip "Rusty" Rastelli 
             (1918年1月31日−1991年7月24日)

 NY五大ファミリーのひとつ「ボナンノ一家」のボスだった人物


 クイーンズ区マスペス地区出身。

 ブルックリン区に居を構え、麻薬密売と高利貸しを稼業にしていた。
  

 ラステリは妻コニーにまとわりついていた前夫をビルから突き落として殺害した。
 また、コニーはラステリが強盗を働いたあと逃走用の車を運転する役目を担当した。

 コニーは、ラステリの多くの愛人達を嫌い、妊娠した女達には中絶させていたと言われている。
 

 コニーは1962年にラステリとの離婚調停で、ラステリ側から提示されたの慰謝料に不満を持ち、ラステリの麻薬密売行為を当局へ密告すると脅迫したため、その後、射殺体で発見された。


 警察当局は、ラステリ自身が妻を殺害したか、あるいは誰か手下等に命じたと考えた。
 しかし、証拠が揃わず彼を起訴するのに十分な証拠が得られなかったという。

1973年、ボナンノ・ファミリーのボスだった
   ナターレ・エヴォラ(Natale Evola)
が癌で病死した後、ラステリはファミリーのボスとして組織を受け継いだ。


 ラステリは、1974年初め頃までボナンノの正式なボスとなった。
 しかし、1975年に投獄されていたラステリは独占禁止法違反及び違法金利により起訴された。


 1976年8月27日、彼は有罪を宣告され、独占禁止法違反で1年、そして違法金利で10年の懲役を言い渡された。


 幹部のカーマイン・ギャランテが1974年に刑務所から出所すると、公式なボスはシャバに不在のラステリのままだったため、ギャランテがファミリーの権力を奪取しボスになった。

 ラステリは、他のファミリーの支持を取り付けコミッションの同意を得て1979年にギャランテを暗殺した。

 暗殺を実行したソニー・ブラックをストリート・ボスに任命したうえで、ラステリは再度ボスの座に返り咲いた。


 その後は、ボナンノ・ファミリーの長年のメンバーである
   サルヴァトーレ・フェルッギア
らを「表向きのボス」に立てた上、組織を刑務所内からコントロールするようになった。

 
 1981年、ファミリー内部において刑務所内からファミリーの運営に注文をつけるラステリがボスの座である事に不満を持つ者達による内紛が発生した。


 刑務所内にいるラステリがボスの座に居座ることに不満を持っていたグループのリーダー的存在だった幹部の
   ソニー・レッド・インデリカート
      (Alphonse "Sonny Red" Indelicato)
を含む数人の幹部が、ラステリの意向を受けた暗殺者の手に掛かり死亡したことにより不満分子が排除され終結した。


 この血生臭い内紛劇は、"ドニー・ブラスコ"という名でボナンノ・ファミリー内部に潜入活動していたFBI捜査官
   ジョゼフ・D・ピストーネ(Joseph D. Pistone)
にも目撃されていた。

 なお、同年、ピストーネは正式なメンバー(メイドマン)となるため「殺しの指示」を受けたため、潜入捜査を終了することとなり任務を終えたうえ掴んだ情報を元にして関係者を逮捕起訴した。

 裁判や裁判でピストーネの正体が明るみに出たために、組織に紹介したソニー・ブラックらがコミッション等の指示で殺害された。

 
 1984年、ラステリは刑務所から仮釈放された。

 早速、1981年に起きた内紛による組織力の低下及び、FBI潜入捜査官ドニー・ブラスコにより、マフィアとしての面目を潰された事等により下降線を辿り始めた組織の体制と勢力を以前の状態に戻すべく建て直しを試みた。
 

 長年に渡り、マフィアは麻薬取引に直接は関与せず、ボス達も正規の構成員に対し麻薬取引に関係しないように命じていたと信じられていた。 

 多くの構成員は自ら使用したり、利益の大きさに影響されボスの命令に背いて薬物ビジネスを拡大させていた。

  
  
 ボナンノ・ファミリーでは麻薬取引は最も大きな収入源となって、モントリオールにあるファミリーの支部が麻薬取引の重要拠点となっていた。


 ボナンノ・ファミリー内では
   シチリア出身の構成員(ZIPSと呼ばれるメイドマン
らが中心となり、カナダに輸入された麻薬をアメリカに輸送していた。


 さらに彼らは他のマフィア・ファミリーと共に麻薬の卸売り及び分配等を国中の犯罪グループに対して行い供給源として市場に流す量をコントロールして価格や市場を支配していた。

 
 ラステリは、1986年有名なマフィア・コミッション裁判(Mafia Commission Trial)において告訴されたが、ラステリと副ボスのジョゼフ・マッシーノらは、既に強請行為に対して告訴されており、また検察官らの要請もあって、マフィア・コミッション裁判からは切り離された。

 1987年、ラステリは懲役12年の禁固刑を言い渡された。
  

 肝臓癌に患っていたラステリは1991年7月21日に人道的処置から再び出所したが、その3日後、クイーンズ病院にて73歳で死去した。


 ラステリの死後、ボナンノ・ファミリーはジョゼフ・マッシーノ(Joseph Massino)が跡を引き継いだ。




  
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posted by まねきねこ at 11:19| 愛知 ☔| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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