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2014年08月10日

映画「鳴梁」大ヒットで「李舜臣(イスンシン)将軍」が脚光

 13隻の戦艦を率いた忠武公と韓国で呼ばれる
   李舜臣将軍
と朝鮮水軍(大船(板屋船)13隻程度)の前に慶長2年9月16日(1597年10月26日)日本水軍の大艦隊の先鋒(関船(中型船)30隻程度)に奇襲攻撃を敢行、来島通総(朝鮮の役に出征した大名としては唯一の戦死者)以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの損害を受けた
   鳴梁海戦
を描いた韓国映画「鳴梁」が大ヒットしている。
 
 これは「セウォル号惨事」で明らかになった韓国政府の指導力不在などへの反発と愛国心を扇動することにもなった。 
 
 ただ、史実をことさら誇張した内容で美化しすぎた海戦「鳴梁海戦」だが、虚偽の情報を韓国国民に植え付けたことで「伝説」となり、今まで「神話」として韓国国民の意識に醸成されて残ったため、「大勝利」とう愚かさを含んだ娯楽作品であり、侘しいものだ。 
 
 
 史実では、日本水軍の雲集した本隊が「鳴梁海戦」の海域に到達する前に朝鮮水軍は衆寡適せずと判断し、夕方になると急速に退却を開始して唐笥島(新安郡岩泰面)まで後退していた。
 
 ただ、日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは行わなかった。
 翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認した。
 
 この時点で、同日中に朝鮮水軍ははるか遠くの於外島(新安郡智島邑)まで逃げて退却していたと言うのが史実だ。
  
 
 戦後に李舜臣が北方に退却した
   制海権の放棄と艦隊の離脱逃走
したことで、日本側の水軍は西岸に進出して戦略目的を達成しており日本軍を阻止できていないという史実は無視され美化されている。

 
 
 映画では李舜臣が決然と対抗し「死即生」として、死に対する恐怖が不屈の勇気に変わる瞬間を描き出し観客の愛国心をくすぐっているという。

 
 世界海戦史に残ると韓国が主張する大勝利はこのようになされた。
 
 
 
  
 日本軍の主力は慶長2年5月から6月ごろに日本海を渡り、7月15日に漆川梁海戦で朝鮮水軍を大破すると、陸上でも左軍と右軍の二手に編成され全羅道に向かって進撃した。
  
 
 左軍は南原城(南原城の戦い)を8月15日に、右軍は黄石山城を8月16日に陥落させた(黄石山城の戦い)。
 
 
 続いて両軍が併進して8月19日全羅道の主府全州を占領すると、左右の諸将は一同に会して会議を行い今後の作戦方針を定めた。
 
 日本軍による全羅道掃討作戦は作戦方針に基き順調に推移していき9月中旬には最終段階に入って残るは全羅道南部のみとなっていた。
 
 当地に存在する明・朝鮮側の戦力は右水営に拠る朝鮮水軍わずか十二、三隻に過ぎなかったという。
  
 
 朝鮮では漆川梁海戦で水軍が壊滅的打撃を受けていた。
 その後、再び李舜臣を三道水軍統制使に任命していたが、戦力的劣勢は明らかであった。
 
 そもそも、李氏朝鮮が外来民族を主体する政治体制であり、身分格差があり重税などで抑圧されていたため、日本軍は解放軍として各地で歓迎され、進んで兵站線の補強に従事したとも言われている。
 
 そのためか、鎖国時代になっても朝鮮半島では日本語が1750年付近まで一般で使われることが多く、何度も使用禁止令が政府より出され使用した者に対する処罰も苛烈であった。
 
 

 
 ■ 露梁海戦 (慶長3年11月18日)
 ■ 漆川梁海戦(巨済島の海戦)
 ■ 順天城の戦い(1598年−)

 
 
  

 
posted by まねきねこ at 05:42| 愛知 ☔| Comment(0) | イベント 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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