岩佐又兵衛
天正6年(1578年)
- 慶安3年6月22日(1650年7月20日)
江戸時代初期の絵師
又兵衛は通称で、諱は勝以
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主
荒木村重
の子として生まれる。
誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であった。
信長に対して反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。
落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されたが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺で保護された。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子
織田信雄
に近習小姓役として仕えた。
文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。
信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めた。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主
松平忠直
に招かれ、北庄(現福井市)に移住した。
忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年を過した。
寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠から、3代将軍
徳川家光
の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住んだ。
20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終えた。
家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。