板坂卜斎
生没不詳
甲斐国古府中の医師で武田晴信の御伽衆のひとり。
室町時代の医師として京都で御医にえらばれた板坂惟順(法眼)の孫、板坂家は代々京都で朝廷の医官をつとめている。
出家して南禅寺東禅院にはいるが、戦国時代の武将で甲斐の守護大名・戦国大名
武田晴信(信玄)
のすすめで還俗して医師となり、1568年、武田晴信を診察した。
その余命を予言したという。
武田家滅亡後は天正年間に徳川家康(松平元康)に仕え医官となった。
2代目(1578‐1655年(明暦元年)11月12日)
天正6年生まれ。
初代 板坂卜斎の子。
室町時代末期の医家で代々足利将軍の御典医だった吉田宗桂・宗恂、施薬院宗伯に学んだ。
徳川家康、徳川秀忠、紀伊の和歌山藩主
徳川頼宣
につかえた。
晩年は江戸浅草にすみ、「浅草文庫」と称して蔵書を公開した。
通称は別に如春、東赤。
関ヶ原の戦い前の小早川秀秋について、『慶長年中卜斎記
』で筑前中納言殿むほんと風聞候、仕置いたずべきとて出られ候由と記したことで知られる。
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