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2014年06月02日

ミケーレ・グレコ(Michele "il Papa" Greco)チャクッリからクローチェヴェルデにかけて悪の帝国を築いた「法王 (il "Papa")」

ミケーレ・グレコ(Michele "il Papa" Greco)
   1924年5月12日− 2008年2月13日
 シチリア・マフィアの構成員。
 パレルモ市内の農業地のチャクッリからクローチェヴェルデにかけて悪の帝国を築いた。
 複数の殺人罪により服役中の2008年に死亡した。
 マフィア・ファミリー間の抗争の調停役をしていたことから
   「法王 (il "Papa")」
とあだ名されていた。
 グレコの自宅地下には秘密会議が行われていた洞窟があった。
 代々グレーコ家はクローチェヴェルデの果樹園の
   農地管理人
でチャクッリとクロセヴェルデ・ジアルディニに縄張りを持つ有力なマフィア一族として知られていた。
 家族的結束が強く果樹園のマフィアの中でも特に恐れられ、親類同士で「血で血を洗う」抗争をしたことでも有名な一家である。 
 ミケーレ・グレコは16歳になるとクレー射撃場に通い、射撃の腕を上げオリンピック候補にもなったという。
 裕福な人しかクレー射撃が出来なかったため、クレー射撃の目的はオリンピック出場ではなく、
   上流階級
の人たちと面識を持つために交流し知り合うためであった。
 青年時代から上流階級と付き合い紳士として成長し、父の農地管理人を継いだ。
 農地管理人の父親
は中尉というあだ名があり、
   クローチェヴェルデの帝王
として君臨し恐れられた。
 父親が亡くなった跡を継ぎグレコはクロセヴェルデ・ジアルディニの地区頭領(mandamento)となった。
 1958年頃に作られた最初のシチリア・マフィアコミッションの初代"書記官"であった
のいとこにあたる。
 ミケーレ・グレコが所有する広大な地所である
   ラ・ファヴァレッラ
にて、政治家や銀行家等の名士を招いてはワインや食事でもてなし、友好関係を結んでいた。
 この地所では逃亡中のマフィア達の潜伏先となり、欧州へのヘロイン供給のための製造所などに使われていた。
 グレコはパレルモ周辺のファミリーと手を組み、パレルモの水道設備の大半を支配下に治めた。
 また、自分の所有地にある井戸を採掘する為の資金を政府からの融資で賄っていた。
 法律によれば、地主は彼らの自身の私用使用のために井戸を持つことは許されており、そこから産出された余分な水は公衆の物であるとされていた。
 パレルモ市では市全体に給水する為の水のうち3分の1をグレコ及び他のボス達から購入する契約を定期的に結んでいた。
 夏場に、水不足が深刻化し灌漑用水が不足していた時、グレコは
   法外な値段
で水を市民に売りつけた。
 永続的な水不足は、マフィアらと市役所にいる手下らにより価格がコントロールされていた。
 欧州連合では域内における農作物の価格維持の為に、農作物を破棄した農家に補助金を支払っていた。
 グレコは農地管理人であり一度も農作物を作った事が無かったのに、不正な金儲けとして
   柑橘類などの農作物
を破棄した代わりに受け取る補助金をECから受け取った。
 これを悪用し、記録文書を偽造し、ECの調査官に賄賂を支払っていた。
 マフィアのボスとして本格的に活動し始めたのは70年代に入ってからで75年にチャクッリのファミリーの代表として、マフィアコミッション(Cupola)に出席した。
 当時、議長だった
   ガエターノ・バダラメンティ
が追放された後の1978年には最高幹部会議長になり、組織の頂点に上り詰めた。
 ミケーレは温厚な田舎の紳士と思われていた。
 捜査当局は80年代に入ってからミケーレがマフィアを支配下に置きコントロールをしていることを突き止めた。
 コルレオーネシ(Corleonesi コルレオーネ村出身のマフィアのこと)が密かに勢力を拡大する中、委員会では中立的な態度をとっていた。
 しかし、ルチアーノ・リッジョのライバルの排除には積極的に協力したという。
 1981年、マフィアのボス
は、第二次マフィア戦争の最中にグレコにより殺害された。
 グレコはステファノ・ボンターデを暗殺後、彼のファミリーをコミッションでの彼の位置を利用して間接的に支配下に組み込みコントロールしようとボンターデ・ファミリーのメンバーらを自分の屋敷へと招待した。
 そのうち、少なくとも11人のメンバーらはグレコの招きに応じ、そのまま屋敷からは二度と帰ってこなかった。
 2つのファミリーへの殺人は
   81年に101人
   82年に150人
の死者を出すほど激しい粛清であった。
 コミッション議長になる前から
   ミケーレ・グレコ
サルヴァトーレ・リイナらコルレオーネシと手を結んでいた。
 リイナガエターノ・パダラメンティを追放する為に、グレコのコミッション内での位置を利用していた。
 リイナボンターデの暗殺を指示してボンターデ・ファミリーをグレコに乗っ取らせて
   インゼリッロファミリー
と共にアメリカへのヘロイン流通路を管理させた。
 グレコの屋敷への死の招待に応じなかった男のうちの1人は
   サルヴァトーレ・コントルノ
で、マフィア戦争が勃発したときに身の危険を感じて地下に潜伏した。
 その後、グレコの甥でありルレオーネシの殺し屋である
の待ち伏せに遭ったが、暗殺を回避した。
 コントルノは当局とグレコらから身を隠している間に、警察に匿名の手紙を送った。
 手紙にはマフィアのメンバーや各派閥そしてマフィア内部での錯綜した状況などの情報が記されていた。
 コントルノは1983年に逮捕された。
 その翌年、先に当局側に転向した
の様に当局への情報提供者となった。
 ミケーレ・グレーコはマフィア戦争でライバルを次々に消していった。
 その後は、マフィアを取り締まっていた捜査当局への対決姿勢を強め、共産党員の
   ピオ・ラ・トッレ議員
   カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍
などを暗殺した。
 イタリア中を震撼させたが捜査当局は当時まだミケーレ・グレーコをマフィアの大物だという事実をつかんでいなかった。
 警察当局は、コントルノの手紙により、ミケーレ・グレコがマフィア内でかなり高い地位にいるという事実に衝撃を受けた。
 長年続くマフィアの一族の出身であったが、
   秘密主義的で疑わしいほどの高収入な地主
であるというぐらいにしか思われていなかった。
 グレコの犯罪歴の後半では
の傀儡に過ぎなかった。
 トンマーゾ・ブシェッタによれば、マフィアとして
   ミケーレ・グレコ
は大人しくて気弱な性格は、リイナにとっては操り人形にするのに都合がよかったという。
 また、幾度と繰り返されたマフィア・ファミリー同士の会合において、グレコはリイナが意見を言うたびに、リイナの意見に全て同意するかのごとく、うなずいていたともブシェッタは述べた。
 1980年代になるとコルレオーネシの勢力が拡大したためグレコも彼らに従わざるを得ない状況になった。
 他のマフィアからはコルレオーネシの言いなり
   「無力の法王」
と嘲笑されるようになった。
 1982年7月、サルヴァトーレ・コントルノによる匿名の情報に基づいて、警察署長
   アントニオ・"ニンニ"・カッサラ
は162人のマフィア構成員を逮捕する為、彼らの
   調査報告書「ミケーレ・グレコ+161」
を作成した。
 カッサラ署長と彼のボディガードの
   ジョヴァンニ・レルカラ
は、1985年8月6日、署長の自宅前にて妻が見ているところを15人の暗殺チームに襲撃され、虐殺された。
 1983年7月9日、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事から、1982年9月3日に暗殺されたパレルモ知事カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍の事件に対する殺人容疑とその他14件の事件に対して、彼の兄弟の
そしてベネデット・"ニット"・サンタパオラらと共に起訴された。
 その後、グレコは4年間行方をくらませていた。
 追跡捜査の結果1986年2月20日にカッカモ村で逮捕され、10日前から始まっていたマフィア大裁判の被告席に加わった。
 裁判において、ミケーレ・グレコは、1983年7月29日に車に仕掛けられた爆弾で死亡した反マフィア治安判事
   ロッコ・キンニーチ
及び二名の彼のボディガードと巻き添えになった被害者ら計4人を含む83件の殺人に対する容疑者として告発された。
 グレコは、他の容疑者達と同様に、自分は完全に無実であり、マフィアについては何も知らないと証言台で主張した。
 そして、自分が正直な一市民であり、名士であることを示すためか、かって彼が所有する邸宅に元検察官や署長等招いていたことのある名士達全ての名前を挙げて自慢した。
 また、グレコは、ステファノ・ボンターデがしばしば彼の所有地で狩猟していたことは認めた。
 そして、ボンターデが暗殺される数日前の聖金曜日に、ボンターデと共に休日を過ごしていたと述べた。
 親しかったボンターデの暗殺に自分は関与していない事を強く主張した。
 1987年12月16日の裁判終結時、彼は全ての告発に対し有罪となった。
 終身刑を言い渡された。
 1991年2月27日に訴えが認められ一旦釈放されたものの、イタリア司法省刑事局局長になった
はグレコと他のマフィア構成員達を再度監禁することを命令した。
 そして、1992年2月に再逮捕され再び刑務所に戻り、ローマにある刑務所内にて死亡した。
  

    
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posted by まねきねこ at 09:01| 愛知 ☀| Comment(0) | 人物伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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